十年後のオルタ・デ・エブロ(下)

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 一九〇九年十月の末、ピカソは「洗濯船」から、モンマルトルの丘の下のクリシィ大通りに引越す。フェルナンドの意向にしたがったものである。彼女は『回想録』に書く。
 「一九〇九年、ピカソは金持になって、古い『洗濯船』から引越そうと思った……そこでモンマルトルの小さな広場から離れて、ピガール広場に近いクリシィ大通り十一番地に移った……アパルトマンの北側に大きなアトリエを、南側に部屋を借りた。部屋の窓はフロショ街の並木のうえに開いていた……ピカソは風通しのよいアトリエで仕事をする。彼の許可なしにはだれも入れない。アトリエでは、どんなものにもさわってはならないし、その乱雑さをいつもそのまま大事にしておかなければならない……」
 このようなピカソの仕事ぶりにとってアトリエを変えることはたいへんな混乱を意味した。しかしフェルナンドは、家具やガラス、食器やグラスなどを買いこんで、住居をととのえる。彼女はきちんと整頓した生活をのぞんだのだ。この時から二人の間の不和が芽ばえる。
 一九一〇年の夏、ピカソはフェルナンドおよびアンドレ・ドランとともにスペインの地中海岸カダケスに滞在する。このあいだに、マックス・ジャコブの「サン・マトレル」のために四枚のエッチングを制作する。それらの版画はピカソの挿絵画家としての仕事の端緒となる。
 また一九一〇年はピカソにとって、キュビスムによる有名な肖像画の年となる。「マンドリンを弾く女」「アンプロワーズ・ヴォラールの肖像」「ウィルヘルム・ウーデの肖像」「カーン・ワイラーの肖像」などが描かれる。有名な画商ヴォラールの肖像画においても、空間における人物像の対象(オブジェ)は、細かく切った面によって構成されている。モノクロム(単色)に近い色調をもった切子の面の構成の中から、サーチライトに照らされたように、ヴォラールの気むずかしい赤ら顔が浮び上がる。──ヴォラールはこの自分の肖像画をあまり好きでなかったらしく、一九一三年にはロシアの蒐集家イワン・モロゾフに三千フランで売ってしまう。こんにちこの絵はモスクワのプーシキン美術館に飾られている。
 一九一一年夏、ピカソは初めて東部ピレネー地方のセレに、ブラックとともに夏休みを過す。この滞在中、ピカソとブラックの画面に印刷文字が現われる。文字はしばしば型付板で描かれ、実物のようにみせるだまし絵(トロンプ・ルイユ)として利用される。それらの文字は、ますます現実から遠ざかってゆく作品のなかで、現実の唯一の断片となる。
 この年の終りになると、ピカソは画面に模倣の断片を寄せ集めるだけでなく、こんどはじっさいの新聞、木片、砂、その他の素材を取り込むにいたる。──それはパピエ・コレ(貼り紙)と呼ばれることになる。

ヴォラールの肖像
ヴォラールの肖像

<新日本新書『ピカソ』──キュビスムの時代>
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