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キュビスムの時代──フォルムの芸術

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 キュビスムの時代

 フォルムの芸術

 キュビスムは生まれた。
 「われわれがキュビスムをつくった時、キュビスムをつくろうなどという意図は少しもなかった。われわれはただ、われわれの中にあったものを表現しようとしただけだ」──のちにピカソはこう語っている。
 じっさい、キュビスムの理念はまだ空気のなかにただよっていた。
 一九〇七年十月、セザンヌの回顧展がサロン・ド・オトンヌでひらかれた。いまやセザンヌは、モンマルトルの画家たちにとってもモンパルナの画家たちにとっても、もっぱらの話題となる。彼らは形、空間、構成などの問題を論議し追求する。ピカソはそれに強い関心をはらう。キュビスムがまだ、グレーズ、メッチンジェー、ル・フーコニエなど、モンパルナスの画家たちの間でつぶやかれていた時、彼はそのキュビスムを横取りして、これを深め、初めはモンマルトルで、ついで世界じゅうにそれを認めさせる。
 ピカソが行きづまったり、迷ったりした時、教えをもとめにゆくのは、アングルであり、セザンヌであり、クールベである。つまり、みな熱心な形(フォルム)の画家たちである。そしてまた彼の共鳴を呼ぶのは、イベリヤ彫刻であり、ネグロ彫刻である。つまり、形(フォルム)の芸術である。
 一九〇八年の夏、ピカソはロワーズ県のクレイユから四キロほどにある小さな村ラ・リュ・デ・ボワで夏休みを過し、一連の風景画を描く。
 同じ夏、ブラックはエスタックで数点の風景画を描くが、それはサロン・ド・オトンヌに落選し、十一月カーンワイラーの画廊に陳列された。それを見て批評家ルイ・ヴォセルはまたしても「キュビスム」という言葉を進呈した。またしてもというのは、一九〇五年に「野獣派(フォーヴィスム)」という言葉を発明したのも彼だったからである。この頃、ピカソはまた彫刻「女の頭部」(一九〇九年)を制作し、彫刻という手段によって面の分析を試みている。
 さて、十九〇八年十一月、税関吏ルソーを讃えるパーティーが「洗濯船」の芸術家たちによってひらかれる。ピカソがその首唱者になり、パーティーは彼らのアトリエで行われた。部屋の仕切りをとっぱらって、奥に主座をつくり、ルソーが坐った。集まったのは錚々たる人たちであった。芸術家では、ジョルジュ・ブラック、マリー・ローランサン、ジャック・ヴァイヤン、アジェロなど。作家の側では、アポリネール、マックス・ジャコブ、アンドレ・サルモン、モーリス・クレミニッツ、ガートルード・スタインなど。このパーティーは、あらゆる点でモンマルトル風であった。料理は間に合わせであったが、酒にはこと欠かなかった。アポリネールがテーブルの端で、ルソーを讃える長い即興詩を朗読した。それは伝説と現実とを織りまぜたものだった。その返礼に、勇敢な税関吏はヴァイオリンをとって数曲を演奏した。アルコールの酔いもまわり、パーティーのもてなしにうれしくなって、税関吏ルソーはピカソの耳にささやいた。
 「結局、きみとぼくとがいちばん偉大な画家なんだ。ぼくは現代風において、きみはエジプト風において……」
 この「エジプト風」というのは、やはりネグロ彫刻風な面をもったキュビスムにおいて──というほどの意味あいであろう。

新日本新書『ピカソ』──キュビスムの時代>
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