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対談「三人のパブロ」(2)スペイン内乱が政治的に目覚める共通のきっかけに

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対談「三人のパブロ」カザルス、ピカソ、ネルーダの芸術(2)

               大島博光(詩人)
               井上頼豊(チュリスト)

政治的に目覚める共通のきっかけに

 井上 スペイン内乱とそれにつづくフランコ独裁とのたたかいは、三人が政治的に目覚めていく共通のきっかけになっていますね。
 大島 スペイン共和国成立(一九三一)後の数年は文化・芸術が大きく花開いたルネッサンス時代ともいわれています。ガルシア・ロルカ(注1)、アルベルティなど多くの詩人が活躍しています。そこへネルーダは外交官として赴任していって、彼らと親交を結びますが、一九三六年にフランコの反乱が始まりファシストの暴虐を目のあたりに見て、ネルーダは最初のヒュマニスムの声をあげます。ファシストにくみするか、たたかうか、多く芸術家が選択を迫られた時期でもあったわけです。

 演奏料や絵の代金を人民戦線に送る

 井上 あのころ私たち音楽の仕事をしていたものがしばしば聞いたのは、カザルスはひじょうに金銭的にやかましい。演奏会で最初の休憩のときに演奏料を全額もってこないと次を弾かない、受けとるとそれをていねいに数えてポケットに入れ、また天使のような顔をして舞台に出て行く、といううわさでした。いかにも、いやなやつだという気分で話されたものです、外国人から。ところがカザルスは当時スペイン民主主義援助音楽家協議会の名誉議長で、スペイン難民の救済に気を配っている……。
 大島 フランコ軍に焼き払われた人びとのために……。
 井上 外国を演奏旅行しながら、ギャランティの一部は人民戦線軍に送っていた。ですから彼なりの方法で、金もってこなければ弾かないぞといえば大騒ぎになることはよく知っていて、使いみちについては一言も言わなかった。私たちはそういうことは全然知らなかったのですが。
 大島 ピカソも絵を売って人民戦線に支援金を送っていました。一九三七年の二月にパリでスペイン人民支援集会が開かれ、ピカソのよびかけなどもあって各分野で運動が盛んになる。集会にはネル一ダも参加して講演しますが、それが有名な「ガルシア・ロルカの思い出」です。口ルカという素晴らしい詩人をファシストが殺したといって暴くわけです。
「……ロルカの死とともに、人びとは相容れることのない二つのスペインをまざまざと見たのです。ひづめの割れた悪魔の足をした、青黒いスペイン、大罪を犯した王党派と聖職者たちの、十字架につけられるべきスペイン──それに面と向かって、溌剌とした誇りに輝くスペイン、精神のスペイン、直観と伝統継承と発見のスペイン、ガルシア・ロルカのスペイン……」

 ファシズムへの怒りを「ゲルニカ」に

 井上 カザルスは「私の唯一の武器はチェロと指揮棒である」といって、自由と民主主義のためにできるだけたくさんこの武器を使う。そして定期的にスペインに帰るのですが、帰るたびに祖国の荒廃の度合いがひどくなっていることにがく然とするわけです。
 大島 そしてあのゲルニカ爆撃(注2)がくる。第二次大戦の無差別爆撃の前ぶれになるわけですが、ドイツ、イタリアのファシズムに支援されたフランコへの怒りを、ああいう形でピカソが、すぐに描く。ひじょうに敏感な反応でそれだけでも素晴らしい。
 井上 「ゲルニカ」を目の前にしたときは、感動しました。他の絵とは感覚が違うと思いました。直線的でなく四方八方から語りかけてくる。
 大島 キュビスムを通過してきたピカソが、ばらばらにした要素を再構成した効果なのでしょうか。スペインの闘牛をはじめ、ヨーロッパのいろいろな伝統的要素を一挙に組み直して、一つの自分の表現に昇華しています。
     (つづく)

 注1 ガルシァ・ロルカ(一八九九〜一九三六年)=スペインの詩人・劇作家。演劇に詩・音楽・美術を導入。フランコ軍に銃殺された。

 注2 一九三七年四月二十六日、スペイン・バスク地方の古都ゲルニカに、フランコ軍を支援するナチス・ドイツの空軍が空襲を加えた。史上初の無防備都市への無差別爆撃だった。

ゲルニカ
ピカソ「ゲルニカ」1937年

<「赤旗」1989.1.7>

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