韓国の詩人 楊明文

ここでは、「韓国の詩人 楊明文」 に関する記事を紹介しています。
『蝋人形』14巻8号(1943年8月)に楊明文という人の詩「斎場賦」が載っている。大島博光も「詩と神話」(ネルヴィル)を書いているが、同誌の編集者だった博光が楊明文と交友していたのは自然であり、静江の手紙に出てくる「楊先生」は楊明文のことに違いない。

韓国語のサイト=ネイト百科事典(http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=264945&v=43)では次のように書いている。

楊明文 1913〜1985年。詩人。平壌生まれ。劇作家ギムジャリム(金兹林)は彼の妻である。 1942年、日本の東京専修大学法学部を卒業し、1944年まで東京に滞在し、文学創作を研究した。 光復後、北朝鮮にとどまっていたが、“1・4後退”時(1951年)に越南した。
1951年11月に全国文化団体総連合会救国隊員で活躍し、1951年からは陸軍従軍作家団員で従軍した。1955年から1958年までソウル大学校文理科大学·師範大学、国防省展示連合大学、首都医科大学、清州大学などで時事評論と文芸思潮を講義し、1960年には梨花女子大学助教授として時事評論を講義した。
1966年以降は国際大学国語国文学科教授に在職した。 1970年に台湾で開催されたアジア作家会議に韓国代表として参加し、1957年に我が国で開かれた国際ペンクラブ第29回世界作家会議に韓国代表団の一員として出席した。
国内の文学団体では、韓国文学家協会会員、全国文化団体総連合会中央委員、韓国自由文学者協会中央委員、国際ペンクラブ韓国本部中央委員、韓国詩人協会理事、韓国文人協会理事などを歴任し、韓国文壇の発展に大きく貢献した。 彼の作品に現れた時精神は、主に言語の技巧を排斥して噴出される感情と考えをそのまま直線的に表現した。 また、自然と生活に対する観照の境地を見せる作品と反共と民族精神を土台にした現実参加的な作品が特徴である。
詩集では ≪花樹院 華愁園≫(青樹社, 1940)·≪頌歌≫(中央文化社, 1947)·≪火星人≫(章旺社, 1955)·≪青い伝説≫(東信文化社, 1959)·≪目鼻立ち 耳目口鼻≫(正音社, 1965)·≪黙示黙≫(正音社, 1973)と三人の信仰詩集である ≪神秘的な愛≫(演算出版社, 1983), ≪地球村≫(羊林社, 1984)があり, その他に〈韓国メトリックに関する研究〉など多くの時事評論·研究論文がある.
≪参考文献≫ 地球村(ヤングミョングムン, 羊林社, 1984)

韓国では歌曲"明太"や新アリランの作詞で知られているという。
「‘明太’の詩人楊明文」と題して韓国のブログで人柄を紹介している。
・・・日本に渡って東京専修大学法学部を卒業した後、40年、詩集 ‘花樹院’を出して日本文壇にデビューした。光復を迎え帰国し平壌で文学活動をしたが、共産主義者たちの懐柔と脅迫に負けて ‘金日成賛歌’を書いたりした・・・。(1・4後退のとき)ほとんどの平壌の文人が避難を決意した中で彼は"金日成賛歌"のせいでためらっていたが、丁寧な説得により結局避難隊列に合流した・・・。芸術家的気質と風貌は、日本留学時代から有名で女性にもかなり人気が高かったという。懇意な後輩であるギムシチョルは楊明文の風貌をこう書いた。 "人並みはずれて太く見える眉毛, オールバックで豊かにとかした髪の毛、下に向いた目つき、太いトーンのどっしりとした声、体格によく似合う韓服、でんと反らした立派な姿勢"。そんな外見だけでなく、すぐれた詩を吟じる腕前とか女性に接する洗練されたマナーなど、一つ一つが女性に好感を持たれる要素として作用するということだった・・・。
(http://blog.joinsmsn.com/media/folderlistslide.asp?uid=mulim1672&folder=36&list_id=12425945)

東京にいた時から魅力的な詩人だったようだが、静江とのつながりが何だったのかは不明。

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