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ピカソ──世紀末のバルセロナ(下)

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 ここで当時のスペインの社会状勢にふれておこう。それは画家ピカソの生成にも無縁ではないからである。
 「学校の先生よりももっと貧乏」というスペインのことわざがあるように、絵の教師ドン・ホセ一家の生活はらくなものではなかった。ピカソじしんも最初のパリ旅行にふれて、友人サバルテスにこう語っている。
 「おやじは旅費をくれて、おふくろといっしょに見送ってくれた。だが、家に帰れば、おやじにはもう何ぼかしの金も残っていなかったのだ……」
 つまり、その頃も、こんにちでも、スペインでは、貧乏はきわめてありふれたものだった。
 またピカソは語っている。
 「子供の頃ガリシアにいたとき、わたしは父親とよく市場へ出かけた。市場では子供用の棺桶を売っていた。赤ん坊がたくさん、蝿のように死んだからだ。棺桶は石灰で白く塗られて、バナナのようにたばねて、つるしてあった。」
 一九〇三年から一九〇五年にいたる、いわゆる青の時代のピカソの絵には、乞食たちが寒そうにうずくまり、やせ細った旅芸人たちが、途方にくれたような表情で立っている。それらは、その頃のスペインの貧困さ、みじめさそのもののイメージである。当時のスペインの歴史は、貧農の反抗と、プロレタリアートの闘争でみちみちている。
 一八九〇年、ヘレス地方の日雇労働者たちは町を襲撃した。一八九一年、カタルーニャでは葡萄園の小作人たちが、土地闘争のために立ち上った。一八九〇年、バルセロナで、バクーニン主義者たちによって指導されて暴動が勃発した。一八九二、三、四年とつづいて、ビルバオの炭坑労働者たちは会社側の監視に反対し、バラック住宅の改善、強制的な給食反対、労働時間の短縮などを要求して大ストライキを敢行した。一八九三年から九七年にかけて、パルセロナではアナーキストたちによる暴動がひんぱんに起こった。ついで、当時スペインの植民地だったキューバおよびフィリピンにおいて、現地人たちが蜂起し、アメリカ帝国主義との戦争が起こり、それは人民の貧窮に拍車をかけることになる。税金はますます増大し、二重に課税されたうえ、それを前払いしなければならない。市場が失われるとともに失業がふえる。リナレスのムルレ炭坑でもストライキが行われ、バーサ、アリカンテでは飢餓暴動が起こる。「カタルーニャの工場地帯では、週に三日だけ働き、バルセロナでは工場閉鎖で、一七〇〇〇人の失業者が溢れていた。」(ブルゲーラ『スペイン現代史』)
 当時バルセロナではアナーキスム運動が盛んで、暴動や騒乱が頻発していた。バルセロナの貧民街のみじめさ、キューバをめぐるアメリカとの屈辱的な戦争後、スペインにもどってきた傷病兵の行列などは、この社会的不安をいっそうかきたてていた。ピカソの一九〇一年頃のデッサン、「アナーキストの集会」「囚人」などのなかに、それらは反映している。

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