世紀末のバルセロナ
一八九五年の春、ドン・ホセはバルセロナのラ・ロンハ美術学校の教師に任命されて、ラコルーニャから赴任する。家族は故郷マラガで夏休みをすごして九月バルセロナに向う。ピカソはその途中、マドリードのプラド美術館を訪れて初めてベラスケスやゴヤを見る。ピカソはわずか十五歳でラ・ロンハ美術学校の入学試験に苦もなくパスする。父親は息子をはげますために、プラタ街にアトリエを借りて与える。ピカソのもった最初のアトリエである。このアトリエで彼は有名な「科学と慈悲」を描く。病床に女の病人が横たわり、両側に修道女と医者が坐っている。ベッドの前に坐って、病人の脈搏をはかっている医者の人物のために、父親はモデルとなってポーズをとってやった。一八九七年、この絵はマドリードの大美術展において準賞を授与された。こんにち、この絵はバルセロナ・モンカダ街のピカソ美術館にあるが、それは十六歳のピカソにとって、もはやアカデミックな師匠に学ぶべき何ものもないことを示している。
ピカソが絵を描きはじめた頃、ヴァン・ゴッホとスーラはまだ生きていた。セザンヌはお気に入りのサント・ヴィクトワール山を辛抱づよく繰りかえし描いていた。
ゴーギャンはタヒチ島に出かける支度をしていた。建築家ガウディは聖家族大聖堂(サグラダ・ファミリア)を建てていた。そして印象派はもう終りを告げようとしていた。ピカソは生涯をとおして、象徴主義(サンボリズム)からシュルレアリスムへと、多くの芸術運動に参加して進むことになる。彼は自分の芸術の肉となり血となると判断したものを摂取して前進する。バルセロナではとくにノネルのモダニズムに影響をうけ、またロートレックやスタンランの影響をうける。
父親にとってバルセロナはラコルーニャよりは穏和な気候ではあったが、いわば夢も消えうせた人生の終着駅であった。しかしピカソにとってバルセロナは、青春の沸きたつような雰囲気にみちた街であり、これから世界征服へとむかう、その跳躍台となる。
当時、バルセロナは人口五十万のカタルーニャの首都で、四分の三が労働者であった。産業の面でも文化の面でも近代化が始まっていた。
文化の面では、新しい風は北欧から吹いてきていた。ニイチェとワグナー、イプセンとメーテルリンク、バクーニンとクロポトキン、絵画ではべックリンとイギリスのプレ・ラファエル派、フランスの印象派──バルセロナは世紀末の新しい思想、芸術の魅力にとらわれていた。そんな文化的中心となったのがカフェー・レストラン「四匹の猫」であった。それはモンマルトルのカフェー「黒猫」をもじったものである。カタルーニャの芸術家、知識人たちが、そこに集まり、ピカソも常連のひとりとなる。(彼が描いた「四匹の猫」のメニューが残っている。)
バルセロナの知的生活は、ミグエル・ユトリロの始めた『毛と羽根』Peli Ploma誌によって活気づいていた。それから『青春』Joventut誌。一九〇一年には、『若い芸術』Art Joven誌が短命ながらピカソの編集によって発刊される。それはピカソが印刷された文字とかかわるよい勉強の場となる。
(つづく)
<新日本新書『ピカソ』──世紀末のバルセロナ>
一八九五年の春、ドン・ホセはバルセロナのラ・ロンハ美術学校の教師に任命されて、ラコルーニャから赴任する。家族は故郷マラガで夏休みをすごして九月バルセロナに向う。ピカソはその途中、マドリードのプラド美術館を訪れて初めてベラスケスやゴヤを見る。ピカソはわずか十五歳でラ・ロンハ美術学校の入学試験に苦もなくパスする。父親は息子をはげますために、プラタ街にアトリエを借りて与える。ピカソのもった最初のアトリエである。このアトリエで彼は有名な「科学と慈悲」を描く。病床に女の病人が横たわり、両側に修道女と医者が坐っている。ベッドの前に坐って、病人の脈搏をはかっている医者の人物のために、父親はモデルとなってポーズをとってやった。一八九七年、この絵はマドリードの大美術展において準賞を授与された。こんにち、この絵はバルセロナ・モンカダ街のピカソ美術館にあるが、それは十六歳のピカソにとって、もはやアカデミックな師匠に学ぶべき何ものもないことを示している。
ピカソが絵を描きはじめた頃、ヴァン・ゴッホとスーラはまだ生きていた。セザンヌはお気に入りのサント・ヴィクトワール山を辛抱づよく繰りかえし描いていた。
ゴーギャンはタヒチ島に出かける支度をしていた。建築家ガウディは聖家族大聖堂(サグラダ・ファミリア)を建てていた。そして印象派はもう終りを告げようとしていた。ピカソは生涯をとおして、象徴主義(サンボリズム)からシュルレアリスムへと、多くの芸術運動に参加して進むことになる。彼は自分の芸術の肉となり血となると判断したものを摂取して前進する。バルセロナではとくにノネルのモダニズムに影響をうけ、またロートレックやスタンランの影響をうける。
父親にとってバルセロナはラコルーニャよりは穏和な気候ではあったが、いわば夢も消えうせた人生の終着駅であった。しかしピカソにとってバルセロナは、青春の沸きたつような雰囲気にみちた街であり、これから世界征服へとむかう、その跳躍台となる。
当時、バルセロナは人口五十万のカタルーニャの首都で、四分の三が労働者であった。産業の面でも文化の面でも近代化が始まっていた。
文化の面では、新しい風は北欧から吹いてきていた。ニイチェとワグナー、イプセンとメーテルリンク、バクーニンとクロポトキン、絵画ではべックリンとイギリスのプレ・ラファエル派、フランスの印象派──バルセロナは世紀末の新しい思想、芸術の魅力にとらわれていた。そんな文化的中心となったのがカフェー・レストラン「四匹の猫」であった。それはモンマルトルのカフェー「黒猫」をもじったものである。カタルーニャの芸術家、知識人たちが、そこに集まり、ピカソも常連のひとりとなる。(彼が描いた「四匹の猫」のメニューが残っている。)
バルセロナの知的生活は、ミグエル・ユトリロの始めた『毛と羽根』Peli Ploma誌によって活気づいていた。それから『青春』Joventut誌。一九〇一年には、『若い芸術』Art Joven誌が短命ながらピカソの編集によって発刊される。それはピカソが印刷された文字とかかわるよい勉強の場となる。
(つづく)
<新日本新書『ピカソ』──世紀末のバルセロナ>
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