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ピカソ──マラガからラコルーニャへ(下)

ここでは、「ピカソ──マラガからラコルーニャへ(下)」 に関する記事を紹介しています。
 マラガでの少年時代は、ピカソ十歳で終わる。町役場はマラガ美術館の管理職の給与をさしとめたので、父親はほかに仕事を探さねばならなくなる。そこで一家は、スペインの北部ガリシア地方、大西洋岸の港町ラコルーニャへ移る。
 父親はその町の美術学校に教職をみいだした。北部の雨の多い湿った気候は、アンダルシアから移ってきた一家にとっては怖るべきものであった。ピカソはノートに書く。
 「もう雨期が始まっていた。それは夏までつづくのだ……
 風が吹く。それはラコルーニャがなくなるまで吹きつづけるだろう」
 一八九一年九月、パブロは「ダ・グワルダ」学園の二年に編入され、一八九二年十月には美術学校のデッサン科に入る。十一歳のパブロは父親の教えにしたがって絶えず描きつづける。
 淋しいラコルーニャの四年間、パブロの勉強は古代美術に移り、石膏のデッサンで満点の評価を獲得する。
 この頃ピカソは、両親と四歳年下の妹ローラのために、発行部数一部の絵入り新聞を発行する。それは彼の最初の新聞で、「ラコルーニャ」ついで「青と白」と名づけられる。「青と白」は、当時の有名新聞「白と黒」をもじったものであった。一面の見出しはすでに彼のジャーナリストとしてのセンスを示し、「毎日曜日発行」という案内ものせる。記事と絵にはP・ルイスの著名入りで、読者である家族は、十三歳の画家が編集長を兼ねていることを知るのである。新聞はすでにピカソ独得のユーモアによって色どられ、記事はみごとな自由さで書かれ、彼の眼にとらえられたモデルはきわめて皮肉な姿で描かれる……「青と白」は三号を数える。
 また一八九四年、父親のドン・ホセが絵画を放棄し、じぶんの絵筆や、絵具を息子のパブロに与えたのもラコルーニャにおいてである。ちょうど闘牛士の師匠があとつぎの若者と交替するように。父親が果せなかったことを息子がやりとげるであろう。

<新日本新書『ピカソ』──マラガからラコルーニャへ>
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