マラガからラコルーニャへ
パブロ・ピカソは、一八八一年十月二十五日、アンダルシアのマラガに生まれた。父の名はホセ・ルイス・ブラスコ、母の名はマリア・ピカソ・イ・ロペス。生まれた子供の名は叔父の名前にあやかって、パブロ・ルイス・ピカソと命名される。
両親は二人ともアンダルシア人で、パブロの生まれたとき、父親のドン・ホセはすでに四十一歳であった。二人ともパブロをたいへんに愛した。スペインには「子供は王さま」ということばがあるが、パブロはだれにもまして王様となる。
父親のドン・ホセは町の工芸学校の教師であると同時に、マラガ美術館の管押係をも兼ねていた。それは名誉にも金にもならぬ、ただ安定した地位というにすぎなかった。町の役人たちは、ちゃんと管理係の給与をさしひいて、教師の俸給をきめていたからである。彼は夢想家で、ディレッタントで画家になろうとしていたが、当時それは多かれ少なかれのらくら者とみなされていた。
母親のマリア・ピカソは豊満で陽気な美しい女であった。胸も腕もゆたかな地中海の女である。彼女の容姿は、のちにピカソが魅かれる女のタイプと無縁ではなかったであろう。
ドン・ホセと友人の画家たちは、スペイン・レアリスムの伝統をうけついでいたが、それはアカディミスムによって生気を失っていた。印象派の空気はこの地方にもやってきてはいたが、それもモネとその一派の絵画的方法とは無縁であった。ピカソはのちに語る。
「わたしのおやじは食堂用の絵を描いていた。そこには、やまうずらや鳩、野兎や兎が描かれていた……」
しかしこの父親は、自然な表現法で絵を描くことを小さな子供に教える。ピカソはひとが呼吸し歩くように、絵を描く。
母親の言うところによれば、子供のピカソが最初に言った言葉は、鉛筆を意味する語、Lapiz の終りの綴 piz ”Piz” だったという。
この生まれつきの画家の天性は、父親のドン・ホセから受けついだもので、これこそ怖るべきピカソの人格のもっとも重要な要素をなしている。したがってピカソの伝記は、この父親への讃辞から始めてもいいのではなかろうか。父親は社会的な危険を恐れずに、画家としての深い確信をピカソに与えた。この確信こそが、のちに世界をゆるがすことになる。
画家の息子ピカソは描く。初めはむろん素朴に単純に。子供が話しはじめるのは、親が子供に話しかけるからである。ドン・ホセとピカソのあいだの主要な対話は絵画をとおして行われ、また小さいパブロの現実へのかかわりあいも絵画をとおして行われる。こうしてピカソは一度も「子供の絵」を描くことがない。
またドン・ホセは、絵画にたいする自然な愛着と同時に、闘牛にたいする愛着を息子に伝える。闘牛への熱中は家族ぐるみのものであった。パブロはまだ小さかった時、父親に連れられて、マラガの闘牛場へ闘牛を見にゆく。九歳のピカソが残している最初の油絵は、牡牛であり、ピカドール (馬上から牛を槍で突いて怒らせる役)であり、闘牛士である。この闘牛への愛着は、作品においても生活においても生涯かれから消えることがない。晩年、南仏ムージャンに居をかまえる頃には、アルルやニームなどの闘牛場にピカソの姿が見られることになる。
いつも絵を描いている小さな少年は、学校の勉強にはほとんど興味を示さない。まわりの者はそれを当りまえと見るようになる。こうして彼は父のモデルの鳩を教室へ連れてゆくことを許される。授業中、彼は隠れて鳩を描いていたのだ。
ドン・ホセは九歳の画家にとってよき父親だった。ほかの者にとって絵を描くということは異常なことだったのに、彼には当りまえのことだった。ピカソの自由はこのような確固とした地盤のうえに基礎をおいていたのである。
(続く)
<新日本新書『ピカソ』──マラガからラコルーニャへ>
パブロ・ピカソは、一八八一年十月二十五日、アンダルシアのマラガに生まれた。父の名はホセ・ルイス・ブラスコ、母の名はマリア・ピカソ・イ・ロペス。生まれた子供の名は叔父の名前にあやかって、パブロ・ルイス・ピカソと命名される。
両親は二人ともアンダルシア人で、パブロの生まれたとき、父親のドン・ホセはすでに四十一歳であった。二人ともパブロをたいへんに愛した。スペインには「子供は王さま」ということばがあるが、パブロはだれにもまして王様となる。
父親のドン・ホセは町の工芸学校の教師であると同時に、マラガ美術館の管押係をも兼ねていた。それは名誉にも金にもならぬ、ただ安定した地位というにすぎなかった。町の役人たちは、ちゃんと管理係の給与をさしひいて、教師の俸給をきめていたからである。彼は夢想家で、ディレッタントで画家になろうとしていたが、当時それは多かれ少なかれのらくら者とみなされていた。
母親のマリア・ピカソは豊満で陽気な美しい女であった。胸も腕もゆたかな地中海の女である。彼女の容姿は、のちにピカソが魅かれる女のタイプと無縁ではなかったであろう。
ドン・ホセと友人の画家たちは、スペイン・レアリスムの伝統をうけついでいたが、それはアカディミスムによって生気を失っていた。印象派の空気はこの地方にもやってきてはいたが、それもモネとその一派の絵画的方法とは無縁であった。ピカソはのちに語る。
「わたしのおやじは食堂用の絵を描いていた。そこには、やまうずらや鳩、野兎や兎が描かれていた……」
しかしこの父親は、自然な表現法で絵を描くことを小さな子供に教える。ピカソはひとが呼吸し歩くように、絵を描く。
母親の言うところによれば、子供のピカソが最初に言った言葉は、鉛筆を意味する語、Lapiz の終りの綴 piz ”Piz” だったという。
この生まれつきの画家の天性は、父親のドン・ホセから受けついだもので、これこそ怖るべきピカソの人格のもっとも重要な要素をなしている。したがってピカソの伝記は、この父親への讃辞から始めてもいいのではなかろうか。父親は社会的な危険を恐れずに、画家としての深い確信をピカソに与えた。この確信こそが、のちに世界をゆるがすことになる。
画家の息子ピカソは描く。初めはむろん素朴に単純に。子供が話しはじめるのは、親が子供に話しかけるからである。ドン・ホセとピカソのあいだの主要な対話は絵画をとおして行われ、また小さいパブロの現実へのかかわりあいも絵画をとおして行われる。こうしてピカソは一度も「子供の絵」を描くことがない。
またドン・ホセは、絵画にたいする自然な愛着と同時に、闘牛にたいする愛着を息子に伝える。闘牛への熱中は家族ぐるみのものであった。パブロはまだ小さかった時、父親に連れられて、マラガの闘牛場へ闘牛を見にゆく。九歳のピカソが残している最初の油絵は、牡牛であり、ピカドール (馬上から牛を槍で突いて怒らせる役)であり、闘牛士である。この闘牛への愛着は、作品においても生活においても生涯かれから消えることがない。晩年、南仏ムージャンに居をかまえる頃には、アルルやニームなどの闘牛場にピカソの姿が見られることになる。
いつも絵を描いている小さな少年は、学校の勉強にはほとんど興味を示さない。まわりの者はそれを当りまえと見るようになる。こうして彼は父のモデルの鳩を教室へ連れてゆくことを許される。授業中、彼は隠れて鳩を描いていたのだ。
ドン・ホセは九歳の画家にとってよき父親だった。ほかの者にとって絵を描くということは異常なことだったのに、彼には当りまえのことだった。ピカソの自由はこのような確固とした地盤のうえに基礎をおいていたのである。
(続く)
<新日本新書『ピカソ』──マラガからラコルーニャへ>
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