最後の審判はないだろう

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 最後の審判はないだろう
                     ルイ・アラゴン

ああ 愛するひとよ 世界最後の日にもせめて
わたしの声がおまえに 答えてくれるように

もろもろの夢も消えうせ 愛の歌もとだえ
すべては 古代ローマの廃墟さながら
ひとびとの驚き 怖れ おののくなか
にせの勝利者たちの 陽気な野営さえ
街の片すみで ほろぼし去られ
心臓ももう 麻痺(まひ)して動かない
わたしの光よ おまえはどこに どこにいるのか

もはや 夏もない 冬もない
みどりの森もない 青空もない

未来も 約束も むなしくうらぎられ
すべては すべては灰のいろをおびる
歌うたいが きかせてくれるのは
怖れと 苦しみと 砂漠のうただけ
おお わが祖国よ ふかいため息がでる
ポンペイ最後の日にも似た この日
美女の顔さえ 惨めな顔にかわりはてる

もはや まぶたは蒼ざめ
もはや あたりは瓦礫の街

まだ 立ちのこっている家家も
ふるえおののく はてしない墓場
こいびとたちは まだいっしょにいるが
いつまでたとうと 夜は明けない
まだ生きている 子どもたちも
だがもう 飾り絵にしかすぎなくなる
泥まみれの一枚の墨絵にしか

もはや ものを見る生きてる眼がない
夕ぐれも もはや 夕ぐれではない

ルイユからヴァンサンヌへと その指を
そのうつろな手のひらをひらいたパリ
想いみるがいい セーヌ河を 河岸を
想いうかべてみるがいい 並木通りを
この翼のひとはばたきでつくりだされた死の眠り
辻つじに ひび割られた心臓が横たわり
石だたみの一つ一つに見知らぬひとが倒れ
もはや 脈うつものはない 血の気のあるものはない
もはや あたりを占めるのは 空虚ばかり

思いみるがいい チュイルリー公園での
おそろしい眼かくし鬼ごっこを
わたしたちはただ霧でしかなかったのか
わたしは見た 写真のなかで
さっと吹きすぎる原子の風で
叫びもあげず 胡粉(こふん)よりもかるく
人間の存在(いのち)の ふっとぶのを

もはや すべては見せかけばかり
もはや ひとの話し声も聞こえてこない

それはペーテル・シュレミールのさかしまだ
ここでは 影がその人間をうしなったのだ
そうして 星をabcとつないでみる
天文学者もいなくなった空のなか
おそろしい災禍をうけた黒い風景のうえ
星ぼしの白い方程式ばかりが
むなしく描かれて 懸かっている

もはや 死者をおくる とむらいもなく
もはや くらやみのない夜がくる

ひとびとが閉じた そのすべての眼でみたのは
剣と 火と 家家のかまどと 飢えと
倒れた鼓手たちにおおいかくされた銃と
マストにまでかかげられた苦悶(くもん)の姿
われらがぶつかる この試練には
もう 病院も 手術も 役立たない
ヒロシマの廃墟の絵図さながら
もはや すべてのざわめきも とだえ
もはや 絶望するものさえ いない

この 魔法のような大虐殺は
われらをあの有史以前へとつれもどす
殺そうにも 生きもののいない屠殺場(とさつじょう)
墓碑銘(ぼひめい)をかこうにも書き手がいない
死が勝ちほこる 蒼ざめた岩のうえに
化石と化した われらのすがたを
いったい 誰が読みとるのだろう

もはや 領土にも 支配者がいない
もはや 人類のいない 季節が流れる

世界が幕を閉じる という物語を
われらは 誰のために書くのだろう
坑夫は鉱山もろとも ふっ飛んでしまう
ここには 証人も裁判官もいない
書かれた遺言にはんたいして
遺産を要求するものの肩をもって
裁決をくだしてやる いかさま師もいない

もはや ことばにも 意味がない
もはや 忘却の世界 不在の世界

徳をはかり 罪をきめる その規準からさえ
人間はもう ひき離され ときはなたれる
めいめいのものが 自分の席につく
きちんと 右がわと 左がわとに
ちょうどミケランジェロの壁画のなかで
善人と悪人とが 列をつくっているように
だが そこにはもはや 審判はない

もはや きざむ時もない 刻(こく)もない
もはや くるしみもない 色もない

光をうしなった 太陽が
誰もいない丸天井をまわる
時を告げる時計は どこにもない
おお まぼろしもないまぼろしよ
彗星(すいせい)たちの 黄金の交錯に
計算と 空想とをはせる
人間の影ももう ありはしない

もはや それは 物質だけの深淵(しんえん)
もはや それは 音楽のない海

だがたとえ 歌が煙りのように消えてゆこうと
わたしに耳傾けるひとが ひとりもいなかろうと
街まちに ひとの足音がとだえようと
気も狂わんばかりの 狂おしさで
わたしは歌をうたいつづけよう
愛の歌で おまえに答えつづけよう
愛するひとよ わたしのただ一つのこだまよ
<『アラゴン選集3』 眼と記憶(一九五四年)>

 一九四八年から一九五三年にかけて世界における「冷戦」は朝鮮戦争においてその頂点に達する。一九五〇年十二月、アメリカのトルーマン大統領は朝鮮戦争で原爆使用もありうると言明する。一九五二年、ビキニにおいてアメリカの水爆実験が行なわれ、日本人の漁夫がその犠牲になる。原爆にたいする世界的な恐怖は、未来への見通しをもった人たちをも昏迷におとしいれた。
 『眼と記憶』は原水爆の脅威・恐怖が現実のものとなり、人類の生死にかかわる問題としてクローズアップしてきた状況のなかで書かれた。
 冒頭の歌「最後の審判はないだろう」は原子兵器の使用によって引き起こされるかも知れない世界終末の光景を詩人は想像によって描いている。
 しかし、原水爆の脅威とその怖ろしさにただ怖れおののいているなら、それは原水爆をふりかざして世界の人民を脅かしているやからの思うつぼにはまることになろう。アラゴンはその脅迫にたいして「人間の意志」を対置させる。
  だがたとえ 歌が煙りのように消えてゆこうと
  ・・・
  わたしは歌をうたいつづけよう
  愛の歌で おまえに答えつづけよう
  愛するひとよ わたしのただ一つのこだまよ

<新日本新書『アラゴン』 眼と記憶>
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