龍野咲人の手紙──女学校へ任命されなかった理由

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大島博光様
 天長節の佳き日
                    龍野咲人
無事でお家へ帰られましたか
貴方が女学校へ任命されなかったのは 思想のためだと校長が昨日申しました。
貴方の思想を西條先生なり 文学報告会なりに証明してもらって 然るべき人とお逢いひになるがよいでせう
大へんな誤解が 私たちの友情に暗影を投げてをります
昨日は私に不参を命じて学校職員の秘密会議がありました
じつに残念です
この誤解が明白に滅し去るまで 私に逢はないでゐてください
ますます疑を深めるのがよいことではありません
私も苦しい立場となりました
詩の友情が 思想の同志かなんどのやうに校長は考へております
どうか よき解決をして下さい
特高の人にお逢いになり 貴方がどんな思想かを明白に申し立てられるが一番いいと存じます
小包五ケ送ります

(封筒オモテ)
更級郡西寺尾村
 大島博光様
消印 19.4.30
(封筒ウラ)
軽井沢町矢ケ崎山
        龍野咲人
天長節(4月29日)

  ◇    ◇    ◇
友人であった詩人・龍野咲人からの手紙が博光の弟・洋さんの日記に挟まっていました。この手紙から”軽井沢の女学校”に就職できなかった真相が分かって来ました。
1)内定していた”軽井沢の女学校”は啓明学園ではなく、長野県軽井沢高等女学校(昭和18年4月軽井沢町立軽井沢高等女子校として開校、19年4月改称)だった。
2)この就職の話は龍野咲人の仲介によるものだった。
3)昭和19年4月28日に学校職員の秘密会議があり、参加を許されなかった龍野咲人は校長から博光が任命されなかった理由が思想であると告げられた。
4)”小包五ケ”は、軽井沢に赴任するため博光が東京から送った荷物だと思われる。就職にあたり龍野咲人宅に滞在したのかもしれない。
5)したがって博光が5月7日から軽井沢沓掛に逗留し、13日に鮎沢露子と清沢洌宅を訪ねたのは女学校の話が済んだあとのことになる。
6)この手紙は洋さんの日記に挟まれていたので、博光の眼にふれていないのかもしれない。4月末に就職が破談になったあとも博光はそのまま軽井沢に滞在し、手紙と荷持だけが実家に届いていたとも想像できる。

*当時の学校の様子を松本隆晴が述べている。「当時僕は上田市の高等科だけを入学させる国民学校にいたのであるが、他の同人たちの話と比べてみると、その学校は最後まで、職員の思想にははなはだ寛大であった。龍野咲人などは、校長が職員に、彼とは一切口をきいてはならぬと厳命し、終戦までだれひとり話しかけるものもなかったという。」(「暗い季節の思い出」
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