シュルレアリスムとピカソ(上)

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 シュルレアリスムとピカソ

 第一次大戦後、パリはその革命的伝統のおかげで、フランス人であれ異国人であれ、若い世代が集まって新しい運動を展開する舞台となった。とりわけダダとシュルレアリスムの運動がそこで繰りひろげられたのである。
 一九一九〜二〇年、ブルトン、エリュアール、アラゴンなどの『文学』誌グループは、スイスからやってきたトリスタン・ツァラに合流した。ツァラは、一九一六年来、スイスでダダの運動を始めていた。そしてツァラをとおして、ドイツのダダイストたちの二人(アルプとマックス・エルンスト)がパリ・グループに加わり、おなじくアメリカから帰国したフランシス・ピカビヤとマルセル・デュシャンなどが加わることになる。こうしてダダの運動はパリに根をおろした。ダダは破壊をこととし、罵詈雑言にみちたその示威運動は、聴衆の怒りを買い、その騒ぎとスキャンダルはしばしば警察の干渉するところとなった。ブルトンやアラゴンたちは、ダダの全的ニヒリスムに次第に対立し、一九ニー年ダダから離れて、シュルレアリスムの運動を始める。シュルレアリストの詩人たちは、一方ではランボオやロートレアモンを出発点とし、他方ではフロイトの無意識の理論にもとづいて、新しい芸術創造を追求しようとする。アポリネールの発明した「シュルレアリスト」という言葉が、新しい芸術運動の旗じるしとして採用されたとき、ブルトンは書いた。
 「この言葉はわれわれによって精確な意味で使われた。われわれはこの言葉によって、夢の状態に対応する、ある心理的自動記述法(オートマティスム)を指すことに意見が一致した」
 シュルレアリストたちにとって、無意識は根本的な重要さをもつものであった。「ピカソはキュビスムにおけるシュルレアリストである」と彼らは言う。
 ピカソはダダやシュルレアリスムの運動には一定の距離をおきながらも関心をよせて、その集会にはしばしば出かけて行く。一九二〇年に起こったことで、いちばん興味深かったのはシュルレアリストたちの運動だった、とピカソはよく言っていた。ピカソはシュルレアリストの画家たちよりも詩人たちの活動に魅かれていた。
 ピカソはシュルレアリストたちの論争に巻きこまれるようなことはなかったが、かれらの機関誌『シュルレアリスト革命』に彼の作品を掲載することを認めた。同誌の一九二五年六月号には、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」の複製が掲載された。それは、この有名な画が描かれてから十七年後の、最初の複製であった。ピカソのアトリエにころがっていたこの画を白日のもとに引きだしたのはブルトンであった。そしてこの機会に、デザイナーのジャック・ドゥセがこの画を買って、そのサロンを飾ることになる。
 また一九二五年、ピエル画廊でひらかれた最初のシュルレアリスト展にもピカソは出品する。この展覧会は、いままでの「サロン」の職業的なから騒ぎとはちがっていた。そこでは詩人と画家の協力がその力を発揮し、たんなる芸術的視点を越えた人間的な態度、行動が問題となっていた。シュルレアリスムの詩人たちと交わりながら、ピカソはそこに戦前のボヘミヤンたちの雰囲気をふたたび見いだした。
 ピカソがシュルレアリストたちと接触した時期は、オルガとの結婚生活が破綻をきたしていた時期でもあった。バレリーナとして世の名声をかちとろうというオルガの夢は、ひたすら絵画ひとすじに生きる男との孤独な生活のなかに潰えさっていた。アナトール・フランスの死に際して『屍』という死者を冒瀆するパンフレットを出して、侮辱とスキャンダルをこととするシュルレアリストの詩人たちと、ピカソはますますかかわりを深め、貴族的な社交界を拒否するようになる。上流ブルジョワ的であったオルガの絶望は深まるばかりであった。(つづく)

<新日本新書『ピカソ』──シュルレアリスムとピカソ>
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