アラゴン「ゲンドリコフ通りの・・・」──マヤコフスキー追想

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 ゲンドリコフ通りの・・・
        
ゲンドリコフ通り(1)の 客間のテーブルをかこんで
わたしたちは いっしょに腰をおろしていた
まるで いまにも扉口があいて あの大男が
窓から射す陽(ひ)のように ぱっと現われそうだった

五ヵ月たてば もうやすやすと 彼の死にも慣れてしまう
彼の声が聞けなくなると すぐに過去形で彼のことを話すのだ
きみにまつわりつく彼は もう観念であり 記憶の仕業(しわざ)なのだ
だが となりの部屋の 洋服だんすの扉があいていて
彼のネクタイが 二つ折れに ぶらさがっているのを見ると
誰でもふと マヤコフスキーがうしろを通るような気がするのだ

彼はそこで 煙草をふかして トランプ遊びをしている
彼の詩が どこか上着のポケットで歌っている
彼がちょっと伸びをする それをきみは転地旅行と呼んだものだ
彼のような肩なら 地平線も軽(かる)がると 持ちあがる
彼の詩が船出の支度をするには 海のひろさが必要だ
耳にひびく脚韻のために 彼には車とレールが必要だ
だが そんなことを言ってみても いまではもうむだなのだ

彼は言ったものだ 明日(あす)どこかわからないが 出かけるよ
パリか パミールか それともペルーか ペルシャへ
彼には 世界は玉突き台だ 頭のなかの赤玉の言葉が
緑色の絨毯(じゅうたん)の上をころがって とつぜんキャノンするのだ

ああ 彼はほんとに行ってしまった そのわけは永遠にわからぬだろう
そのわけを訊(たず)ねるのは ほんとに彼を愛していた人たちにはむごかろう
あんなに何度も かれは地獄から抜け出してみせると約束した
それは暗喩だったようだ 少くとも奇妙なことだった
いまそれを読みかえしてみると 心はひっくりかえるようだ
いつか彼がもどってきたら きみはどうか黙っていてくれ おねがいだ
ネバ河は もうこの世捨て人を放すまいと 彼をその氷の中にとじこめる
かれはもう銅像でしかない 通りの名 広場の名でしかない
したしげに鳥が飛んできて その腕のうえで羽根をやすめる
青銅(ブロンズ)の服のなかで ふるえおののくのは もう風だけなのだ
              
わたしはいつも思い浮かべるだろう 一九三〇年のモストルグ*2を
照明の暗い大きなホール 売ってるものとては ほとんど何もない
カウンターには人影もなく 隅の方に わずかばかりの商品があるばかり
靄(もや)のような人群れが それを遠くから眺めて満足している
「未来は みんなの貧困にうち勝つのだ」と書いた
白文字が赤い布に浮いている 吹き流しのしたで
田舎から出てきた おのぼりさんの農民や 値段をたずねる女たち
奥の方で 宝石屋がほの暗い光りを放っていた
五本ばかしの金の匙を 蒼白い店員が見守っていた
そうして雪は地上に もの悲しげな汚れた足跡を幾すじも浮き立たせていた

わたしは知っている 塗りかえられたこともない壁の中の すし詰めの暮らしを
わたしは知っている 見つけたひと切れのパンを わかちあい
飢えをわかちあい 部屋をわかちあった生活を 息づまるような ひどい廊下を
南京虫や 衝立(ついたて)や 叫び声や もろもろの悪(わる)だくみを
わたしは知っている 一本のピンが 宝だったような
数年もつづいた ひどい物資の欠乏をそうして浮浪児たちを
夕方疲れた 真っ黒な人たちが 電車の昇降口にまで溢れて
恐ろしいけんまくで みんな殺気立っていた
そうして冬なのに 腐ったキャベツの悪臭の中を 穴のあいた靴で歩きまわり
人びとは ゴムの上靴を買おうとして 口ぎたなく値ぎっていた

そういう時だったのだ マヤコフスキーがぱっと光を投げたのは
どうしてそんな蜃気楼がつくり出されたか わたしにはちっとも分からないが
はじめてわたしは 自分に注がれた人間らしい眼を感じとり
見知らぬ人たちが 路傍のわたしに投げてくれた言葉をきいて わたしは身ぶるいしたまるで 肉体的な啓示が わたしに与えられたかのように
ある日 音楽とはどんなものかを教えられた つんぼのように               
ある日 こだまとは何かを教えられた 唖(おし)のように
わたしはくらやみから あのドフジェンコの描いた夜の光りへと変ったのだ
わたしは思い出す 「大地」という映画を見たのも その頃だった
月の光りが あんまり美しくて 思わず声が出てしまったものだ

ふさふさした亜麻色(ブロンド)の髪が スカーフからはみ出て なびいていた
河の流れと泥のなかに作られた 橋脚の台座のうえで
大理石の色をした 背の高い娘が立ちどまって 工事場のたくさんの人を見て
びっくりしている おお ドニエプローグ(3)よ 秋の雨よ
おお 希望の巨大なダムよ だがこのダムは その後 敵を前にして
同じ手によって たまらない苦痛と勇気をもって 爆破されるのだ
十二年後のある夜 ニースで わたしたちはモスクワ放送をきいていた
わたしは この思い出の その白い娘とそのまなざしを思い浮べた
そうして あの危険な工事現場の こまごまとした部分まで思い出した
そうして むかしを夢みながら前進する 生き残った人びとや死者たちを

こんなつらい感情(おもい)を どんな言葉で言い現わしたらいいのだろう
雨が降ろうと 風が吹こうと わたしがいま何ものであろうと
何をしようと 何を言おうと この感情(おもい)はわたしの肉の中に根を下しているのだ
世界のこっちの端(はじ)からさえ この人民を助けよ でなければ
この人民とわれらとの連帯をも害(そこ)ねることになる 気遣うがいい 夢の中でまで
事態が重くのしかかって 人びとをストライキ破りのような行動に駆りたてている時
そしてわたしは見るのだ 高級な連中が冷ややかにあざ笑っているのを
彼らには建設が気に入らぬのだ そうして攻撃されのは指導者たちだ
しかし手に血をにじませて 石やケーブルや綱をつかんでいる人たちに
きみたちは 何を話そうというのか お慈悲を説く先生方よ
                           (『未完の物語』)

(1) ゲンドリコフ通り──モスクワのこの通りに、マヤコフスキーは、リーリヤ・ブリックと住んでいた。いまではマヤコフスキー通りと呼ばれ、マヤコフスキー博物館がある。
(2) モストルグ──モスクワのボリショイ劇場の近くにある大百貨店。
(3) ドニエプローグ──ドニエプル水力発電所のこと。その大きなダムは、第一次五カ年計画の期間に建設を始めたが一九四一−一九四二年、ドイツ軍が侵攻してきたとき、ソ連軍によって爆破された。

 (筆者はここで、その頃やはりモスコ一に滞在していた中条百合子(宮本百合子)のことを思い出さずにはいられない。中条百合子は、正確には一九二七年十二月に東京を発ってモスクワへ向い、一九三○年十月二十五日にモスクワを発って帰国している。ちょうどアラゴンたちのモスクワ到着とすれちがいということになる。そのとき中条百合子は、みずみずしい澄んだ眼で、社会主義建設をまのあたりに、むさぼるように見てとり、自己の革命と未来への道を見きわめつつあった。東西の二人のブルジョワ出身の作家詩人が、社会主義建設を自分の眼でたしかめて、自己の革命への決定的な転換点としたということは偶然だろうか。──なお、宮本百合子の『道標』第三部には、マヤコフスキーの告別式の模様が、きわめて印象的に措かれている。

 「伸子は思いもかけない場所──広間の敷居を越した、棺の足もとで、停止した。停止した伸子の目のさきに棺からぬっとはみ出すように突立っているマヤコフスキーの大きな靴の底があった。生きていないひとのはいている靴の底をまともに見ているというのは異様な感じだった。…伸子が思わずそらすようにした視線をふたたび、大きな靴の底にもどしたとき、伸子の頬に、かすかな衝撃の色と、何かをいそいで理解しょうとする表情が浮んだ。大きい大きいマヤコフスキーの黒い靴の底に、二つのへりどめ金がうちつけられて光っているのだった……」)

<東邦出版社『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』──最初のソヴィエト訪問>

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