ランボオ、ピカソ・・・ 大島博光氏 美とリアリズムを語る

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ランボオ、ピカソ・・・大島博光氏 美とリアリズムを語る

 リアリズム詩人・詩論家の大島博光さんは、このほど『ピカソ』(新日本新書)を著し、芸術家ピカソの美にあらためて光を当てました。この機会に、大島さんにとって美とは何かを語ってもらいました。(富山義泰記者)

新しい美を発見しようと・・・
 こんどの本を書いているうちにも、ピカソのレアリスムと生きざま、そこに表現されている世界のすばらしさに、ますます教えられました。フランスの詩人ジャック・ゴーシュロンは、ピカソと十九世紀フランス革命期の詩人ランボオとを並べて論じています。ランボオの詩「地獄の季節」の一節を引用して──
 「<ある夜、おれは『美』を膝のうえに据えた。するとおれには『美』が苦にがしいものに思われた。そこでおれは『美』に毒づき侮辱した>・・・ピカソの作品は完全に、このランボオの言葉の一種の解説であり、挿画である、とわたしは考えることもできる」
 ランボオが毒づいた美というのは、当時のフランス詩壇のお偉方たちパルナッス(高踏派)の詩でした。ゴーシュロンがこれを引き合いに出したのは、ピカソのキュビズム(立体派)宣言と位置づけられる「アヴィニョンの娘たち」についてです。それまでの古典的な、上べの整った美女ではなくて、分析されて面になり、再構成された近代的な女性が描かれた。そこには、ピカソの強烈な近代的自我を通じて描き出された現実がある。
 十六、七歳でパリ・コンミューンのたたかいを熱烈に支持した天才的な詩人ランボオが、形骸化された「美」に「毒づき」、現実のなかに新しく美を発見しようといったのと同様、ピカソも、現実を分析する自覚的態度のなかで新しい表現をうみだしたと評価したのです。

宮本百合子のするどい感性
 一方エリュアールは、布や紙やクギを使ったピカソのコラージュについて、廃物を使って現実に迫ろうとすることは、詩におけるわれわれの試みとも一致するといいました。ランボオから出発して、醜いものもしばしば美しい、レアリスムを通して、かつて醜いとされたものも美に転化していこう、という態度です。美の現代的な意味づけは、レアリスムによってこのようになってきたといえるのではないでしょうか。
 強烈な近代的自我という点で感動するのは、宮本百合子です。『道標』のなかに、マヤコフスキーの葬式にいって、目の前に死者の大きな靴の裏がニョキッと立っていた、という場面がある。靴の裏にビョウが二つ光っている。そのことから、マヤコフスキーが革命に遅れまいとして、一生懸命それで歩いたと、そういうことまで思いを馳(は)せている。そして哀悼の意をこめて、革命詩人の業績を思っているわけですが、靴の裏のビョウなど客観視するだけなら何でもないものを、まことに鮮やかな象徴的なイメージとしてとらえている。こういうものこそ、レアリスムのなかの新しい美ではないかと思うのです。作家の鋭い意識と感性を通じてキャッチできる美。すぐれた現実の把握力から生まれるものです。

美をつくりだし豊かにする
 芸術家のそうした能力は、ピカソがレアリテを表現しようと試みるなかで生み出した、新しい表現の手法を通じて、逆に人間の視覚が解放され新しい世界がきり開かれたように、現実のなかの典型を選びとる力を人間に与えることにつながっていく。これがレアリスムの基本的な態度だと私は思っています。
 美というのは、おそらく一般的にあるものではないでしょう。美とは創造されるものであり、あらゆる芸術家が、具体的な問題として美を創(つく)り出すのだと思います。その点、アラゴンやエリュアールがシュールレアリストとして、観念的な言葉の「革命」にとどまっていたものが、しだいに具体的な社会的問題をつきつめることによって革新の道に近づき、レアリストになっていくのは興味深い点です。そして彼らが、表現上の修練をつんだ秩序づけや手法をいろいろ学んできたことで、新しい文学的財産をのちの革命的文学の中に持ちこみ、豊かにすることになったというところにも、今日は考察の幅を広げなければいけないのではないでしょうか。

<『赤旗』1986.10.11>

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