粘土と火の労働者ピカソ(上)

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 粘土と火の労働者ピカソ
                    大島博光

陶工たちの腕前に魅せられ
 一九四六年八月、南仏の小さな町ヴァローリスで、ひとつの陶芸展が開かれた。──人口一万のヴァローリスは二千年の昔から陶器を焼いてきた由緒ある町である。当時、その窯業(ようぎょう)は衰亡の道をたどっていて、大きな工房の古い窯(かま)がひとつまたひとつと火を消していた。こういう状況の中で、共産党に指導されていたヴァローリスの町議会は、窯業の復興を策して陶芸展を開いたのだった。
 たまたま、ヴァローリスから四キロほど南のゴルフ・ジャンの海べに避暑にきていたピカソがこの陶芸展を訪れた。その帰途、彼は陶工ラミエの「マドゥラ」工房に足を停めた。彼は試しに二つの雄牛を粘土でつくった。まもなく雄牛のことなどを忘れて彼はパリに帰ってしまった。
 つぎの年、ピカソはまたヴァローリスにやってきて、去年つくった二つの雄牛を手にとって見た。陶芸への意欲がわいてきて、こんどは皿を手がけることにした。ヴァローリスの陶工たちのみごとな腕前と仕事に魅(ひ)きつけられたピカソは、自分も粘土のかたまりを陶器に変えてみたいという誘惑にかてなかったのである。
 こうして彼は一九四七年の夏、ラミエのマドゥラ工房に毎日のように通って、陶芸という新しい技術の秘密を追求する。それは一九四八年十月までつづいた。彼はたちまち古い陶芸の技法をわがものとして陶工となった。

大胆で奇抜な想像を投入し
 現代美術のあらゆる領域にわたって、量的にもぼう大な作品を生んだピカソの全仕事のうちで、陶芸もまた非常に重要な一部門をなしている。そのピカソの陶芸はこのようにして生まれたのである。この「陶芸の年」はだしぬけに訪れた偶然のようにみえるが、一九四六年という年は彼が「泉にみちびかれるように」共産党に入党した翌年であり、この小さな陶芸展が共産党自治体の地場産業振興策であったという点、なかなか興味ぶかいものがある。
 彼は轆轤(ろくろ)のまえに座って粘土をこね、水差し、花瓶、皿、小さな立像などを作り、それらに色を塗り、釉薬(うわぐすり)をかけ、窯に入れる。
 ピカソはそれらの陶芸作品のなかに、画家としての円熟した技法、ひらめいた霊感、大胆奇抜な想像などを即興的に投入する。いままでよく描いてきたもの、発見したもの、夢みたもの、それらすべてをあげて装飾にあてる。
 こうして生まれてきたのは、ジュピターの顔や角の生えた頭、太陽や月、双管の笛を吹く者、糸を垂れて釣りをする者、水の精(ニンフ)とひげを生やした男の半人半馬(ケンタウロス)、フクロウと牡牛、鳩と禿鷹(ハゲタカ)、花瓶のまるいわき腹に胸と腰を曲げている踊り子たち・・・またピカソの手から生まれた、人間のかたちをした小さな立像は、エジプトやキプロスのテラコッタ人形とよく似ていた。
 ピカソはまた、むかしのペルーの陶工にならって、動物や人間のかたちをかたどった陶の容器をつくる。またバロック風な花瓶やクラシック様式の壷がつくられた。バロック風なかたちの上にクラシックの装飾がほどこされたかと思えば、クラシックなかたちの上にバロック風な装飾がつけられたりした。
(つづく)

<『赤旗』日曜版 1983.11.27>
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