ワセダの思い出

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 ワセダの思い出
               著述業 大島博光   昭和九年 文学部仏文専攻卒

 わたしが早稲田第二高等学院仏文科に入学したのは一九二九年(昭和四年)の春だった。
 それは嵐を前ぶれする稲妻がひらめくと同時に、一瞬陽光がまぶしく射すような時代だった。世界恐慌が始まっていた・・・しかしその当時、わたしはそんなことに気がつかなかった。
 その頃、わたしは小石川区第六天町に下宿していた。切支丹坂を登って、関口台町の灰色の表通りを歩き、坂をくだって江戸橋に降り、江戸川公園の樹木の下を歩いて、学校へ通った。公園のわきの小川にはまだ水車が残っていた。
 公園のなかで写生をしていた若い女の画家と、知ったかぶりをして、ヴァンドンゲンの話をしたことを覚えている。その頃、ヴァンドンゲンの嵐の絵などに感動していたせいかも知れない。

 その頃、第二高等学院は、道路をへだてて、安部球場の南側に建っていた。学院の正門の前に、二階建てのクラブ・ハウスがあって、その二階に「新興文学研究会」という表札をかかげた部屋があった。ロマンティクな新しい文学を夢みていたわたしは、そういう文学の研究会だと思って、そこに入ることにした。入ってみると、そこでは、ルナチャルスキーの『革命と文学』とか、エンゲルスの『空想より科学へ』いった本がテクストに使われていて、わたしはびっくりした。田舎の文学青年だったわたしは、革命という言葉もその意味も知らなかったのである・・・
 思えば、それは学生運動が最後の輝きをみせていた、その末期であった。その後、有名な学生ストライキが起った。どんな理由で起ったのか、わたしは忘れてしまった。覚えているのは、大隈侯の銅像の立っている広場を学生たちがぎっしり埋めていたことである。そうしてその前で、大山郁夫教授が演説をしている姿をわたしは見た。
 この集会のあと、戸塚町の学友の下宿で四、五人で、松茸を煮て豪勢な宴会をひらいたことを覚えている。姫路出身の学友のところに、親元から松茸が送られてきて、この宴会となったというわけだ。
   *    *    *
 やはり早慶戦は忘れられない。当時プロ野球はまだ結成されず、野球の早慶戦がもっとも華やかな時代だった。その熱狂ぶり、異常さは、こんにちのラグビー早明戦に匹敵するものだった。有名な「リンゴ事件」のときは、試合の終ったとたん、ワセダの応援団の一部がグランドを突っきって、ケーオがたにナグり込みをかけたように覚えている。おそろしく殺気立っていた。三原脩が新入生で、さっそく華麗なプレーを披露したのもその頃だった。のちには一升ビンをぶらさげて応援に行くようになった。優勝したシーズンには、神宮球場から神楽坂を通って早稲田まで提燈行列に加わったこともある。神楽坂では、道ばたにテーブルを出して、祝い酒をふるまってくれた。とにかく早慶戦の夜は、勝っても負けても、新宿で飲み、神楽坂で飲み、高田の馬場で飲んで、ワセダの青春を謳歌した。こうしてのちには、ワセダ・ラグビーの熱烈なファンともなる・・・
   *    *    *
 一九三一年の春、わたしが学院から文学部へ進んだ時、高田牧舎の前の門から入って、芝生の広場をへだてて、四階建てのショウシャな文学部の新館が完成した。屋根には、校歌にうたわれている「イラカ」を配していた。(いまは文学部ではないらしい。)そして道路ぎわの杉木立のかげには、坪内逍遥や片上伸などの伝説にみちた、緑色の木造の二階建ての古い校舎が建っていたが、それはまもなくとり拂われた。
 その頃、吉江喬松先生のフランス文学史や文学概論の講義が評判で、大きな教室がいつもいっぱいだった。それから西條八十教授の、校門近くの喫茶店での講義は、その後やはり伝説ともなった。わたしはそれを詩のかたちで書いたことがある。

 早稲田のキャンバスの近くの喫茶店で
 わたしたちは先生を囲んで座っていた
 先生のヴェルレーヌの話がおもしろかった
 ということくらいしかおぼえていない
 しかしそのとき先生の前にあった
 チキン・ライスのだいだい色だけは
 鮮やかにいまもわたしの眼に見える

 戸塚通りの中ほどに、行きつけの古本屋があった。フランス語の原書を専門に扱っていた店で、名まえももう忘れてしまった。あるとき、友だちと一杯のみたいのにカネがなかった。そこでその古本屋のひとのいいおやじに、ソフト帽を質に五円貨してもらったことがある。貧乏学生のくせに、丸善で求めたボルサリノの黒のソフトだった。それから新宿あたりに繰り出して行ったことはいうまでもない。五円あれば、二、三人でちょっと飲んで、赤線地帯をひやかすこともできたのだ。鶴巻町の居酒屋では、冷ややっこ付き銚子一本で十五銭だった・・・

(『早稲田昭和断念志』)

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