スペイン戦争とゲルニカの誕生(下)

ここでは、「スペイン戦争とゲルニカの誕生(下)」 に関する記事を紹介しています。
 また、ラファエル・アルベルティは書く。
「──ピカソよきみは言う。『わたしは生涯を自由にささげてきた。そしてこれからも自由でありつづけたい……』
 きみは自由であり、いつにもまして自由になるだろう。なぜなら芸術を解放した者は、けっして束縛されることはないだろうから。
 ……自由のもっとも鋭い叫びを、きみは『ゲルニカ』によって挙げた。自由は、残酷さと卑劣さをもって虐殺されて、横たわっていた。きみを駆ってその死を告知させ、あのしかけられた戦争を、ただやめさせるという目的だけで非難させたのは、自由なのだ。
 怒りに燃えて告発し
 きみは天にまでおし挙げた きみの慟哭を
 断末魔の馬のいななきを
 そしてきみは 腕を切り落された母親たちから
 怒りの歯を抜きとった
 きみは地面に並べて見せた
 倒れた戦士の折れた剣を
 えみ割れた骨の髄と
 皮膚の上のぴんと張った神経を
 苦悶を 断末魔の苦しみを 憤怒を
 そしてきみじしんの驚愕を
 ある日きみがそこから生まれてきた
 きみの祖国の人民を
それらすべてを、きみは『ゲルニカ』と名づけた……」(アルベルティ『途切れざる光』)

 「ゲルニカ」の制作中に、ピカソはつぎのように言明している。
 「スペイン戦争は、人民にたいする、自由にたいする、反動の闘いである。わたしの芸術家としての全生涯は、もっぱら反動と芸術の死に反対する絶えざる闘争であった。ゲルニカと名づけるはずの、いま制作中の壁画においても、わたしの最近のすべての作品においても、わたしははっきりとスペインの軍部にたいする憎悪を表現している。軍部こそはスペインを苦しみと死の海に投げこんでいるのだ。」
 この声明のなかの「芸術の死」にたいする反対というのは、ミラン・アストライ将軍にたいする返答である。その頃、将軍は哲学者・詩人ミーゲル・ウナムノにたいして「知識人(インテリ)などやっつけてしまえ。死万才!」ということばを投げつけたばかりであった。それにたいしてウナムノは「あなたは勝利するでしょう。あなたは必要以上に物理的な力をもっているのだから」と答えたといわれる。ウナムノはピカソにとって青春の象徴そのものであった。
 「ゲルニカ」は、パリの万国博覧会のスペイン館に陳列されるやいなや、いろいろな批評を浴びた。フランコ派からは罵倒され、左翼からはほめたたえられた。ある共産主義者は「武器を執れ、という決起の呼びかけを期待していたのに、これは死亡通知状」だと言って嘆いた。またスペイン共和国のある高官は「『ゲルニカ』は反社会的で、滑稽で、プロレタリアートの健康な心情とは無縁だ」と言った。
 しかし、パリの批評界は熱烈にこれを歓迎した。『パリの虐殺』の著者ジャン・カッスーは書く。「いままであらゆる意味で拒絶されていたこの絵画に、名のある人びとが押しよせた。いまやこの絵は、充実と現状性とに、身振りと叫びとに、みちあふれている。それはわれわれのもっとも身近な悲劇を表現している。」
 それまでピカソにほとんど心動かさなかった批評家アメデ・オザンファンも「ゲルニカ」を評価して言う。「この男はつねに状況と同じ高さにいる。われわれはいまこの世界がだらしのないことを知っている。すべてのひとが卑められているのだ。こんにちの時代は重大でドラマチックで危険にみちている。『ゲルニカ』はこの時代にふさわしい。」
 「ゲルニカ」の制作後、一連の「泣いている女」が描かれる。十月二十六日の日付をもつ「泣いている女」はとりわけ有名である。女の手は口もとのあたりでハンカチを切り裂いている。涙だらけの顔には眼が飛びだしており、顔は悲しみのためにひきつり、ゆがんでいる。これはスペインの悲劇を反映した傑作の一つに数えられている。この肖像画のモデルは、ユーゴスラビヤ生まれの写真家で、シュルレアリスムの支持者ドラ・マールであり、ピカソは一九三六年にエリュアールの紹介で彼女を知ったのであった。その後およそ十年のあいだ、彼女はピカソとともに暮らし、絶えずそのモデルになる……。

ピカソ

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