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ニコラス・ギジェン対談・人間賛歌(上)

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対談・人間賛歌ギジェン

ラテンアメリカの代表的詩人と日本の詩人が語る革命・連帯・詩・人生
                            ニコラス・ギジェン 
        大島博光 

 廃墟を回復させた人間の力

 大島 わたしたち日本の詩人は去年来お待ちしていたギジェンさんを迎えることができてとてもうれしく思っています。ギジェンさんは日本ははじめてだと思いますが、いかがですか。とりわけ広島には特に来日前から訪れてみたいといっておられたそうですが。
 ギジェン 広島を訪れて、一口でいえないくらい複雑な気持になりました。廃墟のあとをみて、非常に悲惨なことがおこったのだという思いがわきました。ナチスも同じように残虐なことをしたのです。が同時に、その廃墟を回復させた人間の力に感動しました。つまりああいう悲惨なことに出会っても、新しい生命は芽ばえるのだという感動がわいたのです。
 その他、京都や大阪でお目にかかったたくさんの方がたや、多くの詩人、文学者、キューバと日本の友好と連帯を願う人びとと出会って、わたしは、いま、たいへん日本を去りがたい思いがしています。
 大島 日本のたべものはどうでしたか。
 ギジェン 刺身はおいしかった。でもわたしより妻の方がもっと好きだといっています。天ぷらも食べたし、大阪ではカキ鍋も食べました。
 大島 ではもう一度日本にぜひきて、また食べてください。
 ギジェン 必ずもどってきます。(笑い)
 大島 ギジェンさんは少年時代をどんなふうにすごされたのですか。
 ギジェン わたしは、中学卒業後、父の経営するカマグェイの新聞社で印刷工として働いていました。そして働きながら高校を卒業し、そのあとハバナ大学で法律を勉強しました。でも一年で法律の勉強をやめてしまい、新聞記者として働くようになりました。
 カマグェイはわたしの生まれた土地ですが、ここはキューバで三番目に大きい都市です。
 大島 ギジェンさんの「テンゴ」(おれは持ってる)という詩にはキューバの人民の生活が描かれていると思いますが、ギジェンさんの少年時代のキューバの人民の生活はどんなものだったのでしょう?
 ギジェン 「テンゴ」という詩を読めばある程度、民衆の生活はおわかりいただけるかと思いますが、文化などはすべてお金のある一部の人に握られて、貧しい人には何も与えられていなかった。

 スペイン内乱に参加できた誇り

 大島 ギジェンさんは、一九三七年スペイン動乱に際して、「スペイン」というすばらしい詩を書いておられます。私たちはたいへん感銘深くその詩を読んでいます。そうしてあなたのこの詩や、ネルーダの詩集『心のなかのスペイン』が、その後のフランスの抵抗詩に大きな影響を与えたといわれています。その頃の思い出に残るエピソードをお話いただけませんか。
 ギジェン 一九三七年に文化を守るための芸術家会議の招待をうけてマドリッドに行きました。マドリッドに行くまでにカナダのケベックを通り、パリに行き、やっとバルセロナに入ったところでナチスにあと押しされたファシスト軍の爆撃を受けてしまいました。
 大島 そのとき、アラゴンやネルーダとお会いになったわけですね。
 ギジェン アラゴンとパブロ・ネルーダとはマドリッドで会いました。もうその頃にはピカソもきていましたし、世界中の重要な文化人が集まっていました。
 その文化を守るための会議で、政治的テーマが話題にのぼりました。そこでスペインの人民がなぜフランコ独裁政権に対してたたかっていかなければならないかがよく理解できました。
 そこにはヘミングウェイもきていました。わたしはキューバにいたときからへミングウェイの友だちでしたが、へミングウェイは、電話局のそばに住んでおり、通信機関はよく爆撃の対象となりますので何度か爆撃を受けましたが、幸いなことに彼の家は壊されなかったということでした。
 その会議ではスペインの大詩人アントニオ・マチャードが議長をしていたのですが、そのマチャードがいったすばらしい言葉は、その会議のスローガンにもなりました。
 さきほどもいいましたが、アラゴンをはじめ世界の著名な詩人たちが参加したこの会議では決議がおこなわれました。その決議は世界中で協力してフランコ主義とたたかっていこうということでした。これは、ラテン・アメリカの同じスペイン語を話す民族にとってはたいへん重要なことでした。この決議をしたことが自分たちの国の政治を変えていく重要な力になったことはまちがいありません。
 そのころのキューバはちょうどバチスタ独裁政府とのたたかいがおこなわれていたときでした。スペインのなかでスペイン人民の自由のためにたたかうことは、同じような独裁政権下で苦しんでいるキューバ人民のためにたたかうことでした。スペインのためのたたかいは、キューバのためのたたかいでした。ですから、そのときキューバの多くの人たちがこのたたかいに加わりました。
 その頃、わたしはたくさんの共産主義者たちと協力し行動をともにするようになっていたのです。そういうなかでわたしはついに共産党に入党することを決意したのです。
 その後わたしは船でキューバに帰りました。キューバのサンチャゴに着いたとたんに、わたしは警察の手で弾圧を受けました。それはスペインの内乱に加わって人民戦線を支持してたたかった人間すべてに対しておこなわれたキューバ独裁政権の弾圧だったのです。つまりキューバについたとたんに、それまでスペインでスペインのためにたたかっていたことが今度はキューバのためのたたかいに変わったのです。
 わたしはいま、その歴史的なスペイン内乱のたたかいに参加できたことは非常に誇り得べきことだと思っています。
(つづく)

    *   *   *   *   *   *   *
 ニコラス・ギジェン氏略歴
 一九〇二年、キューバ中部の都市カマグェイに生まれる。父はリベラリストで、カマグェイ市とハバナ市で二つの新聞社を経営していたジャーナリスト。ギジェンが詩を書きはじめたのは中学一年頃からだが、それは詩人でもあった祖父(パンチョ・ギジェン)の影響をつよくうけて育ったからだという。中学卒業と同時に父の経営するカマグェイの新聞社で、印刷、製版の仕事に従事。一九二〇年ハバナ大学で法律を学び、ふたたびカマグェイに帰って、詩人を志す友人たちと同人誌『リス(ゆりの花)』を発刊。また雑誌『カマグェイ人』の編集を担当。その頃の詩はニカラグワの詩人ルベン・ダリオの影響をつよくうけたモデルニズムの作風のものが多い。またカンポマモール、ベッケルなどもギジェンら青年たちにつよい影響をあたえていた。一九二二年『心臓と脳髄(こころと想念)』という〝解剖学的な書名″の詩集を発刊。これがギジェンの処女作詩集である。
 一九二六年ハバナに移り、内務省の書記として勤務、かたわらハバナの有力日刊紙寄稿をつづけ、次第に世の注目を浴びる。一九三〇年『ソンのモティフ』、三二年『ソンゴロ・コソンゴ』と二つの詩集を刊行、異常な反響をよぶ。
 一九三三年のマチャード政権崩壊後はジャーナリスト、詩人としての活動に専心。日刊紙「インフォルマシオン」の編集、週刊誌『エル・ロコ』の編集長。とくに人種差別問題、社会的不正にはげしい怒りの論陣を張る。共産党(人民社会党PSP)への接近は一九三七年正式に入党。週刊誌『レスメン』の編集委員、月刊誌『メディオディア』の責任者(一九三六〜三九年)、日刊紙「オイ(今日)」の編集者(一九三八〜五三年)として国内、国外の出版物に執筆、南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカの諸国を訪問。その著書は世界のほとんどの国ぐにで刊行されている。
 人民社会党の中央委員であったことと、その著作が革命的であったことで、時の政府に何回か逮捕、投獄され、ついに国外亡命を余儀なくされる。亡命中の一九五四年、レーニン国際平和賞を受賞、世界平和作家会議国際委員。革命と同時にキューバに帰国、一九六一年キューバ作家芸術家同盟(UNEAC)議長。一九七六年、キューバ共産党中央委員。
(ギジェン氏歓迎実行委員会パンフより)
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<『文化評論』1978年6月号>

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