抵抗詩について

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 抵抗詩について
                    大島博光

 先ほどから皆さんの詩の朗読をきいておりまして、それ自体が抵抗詩であると感激しております。
 ただいま三井さんが、日本の戦争詩の責任についてお話をされたので、私はその戦争時代、私の若い時代のことと、フランスの抵抗詩のことを比較して考えてみたいと思います。
 今日、ここでたいへん友情に溢れた歓迎の辞を述べられた松本隆晴さんも、私の戦争中の詩人仲間でありました。昭和十年から終戦前の昭和十八年まで、私は西条八十主宰の『蝋人形』という雑誌を編集しておりました。一方で、当時、日本の詩壇でもっともモダニズムの雑誌といわれていた春山行夫や村野四郎や近藤東のやっていた『新領土』にも加わっていた。この『新領土』に松本隆晴さんも名をつらねて、モダニズムの詩を書いていたものでした。幸い私たちは無名でありましたので、戦争詩として責任を問われるような詩を書かずに済んだのです。当時の私は芸術至上主義者で、一方ではシュルレアリズムの紹介をしたり、アラゴンやエリュアールを訳していました。
 戦争中の『蝋人形』には、アラゴンがソビエト・ロシアの十月革命をほめたたえた「二十世紀」という詩の訳をローマ字で載せております。もし発表誌が『蝋人形』でなく、ローマ字でなかったならば間違いなく発禁になっていたでしょう。だから『蝋人形』では、かなり前衛的というか、進歩的というか、そういう形の仕事を少しはやっていたと思います。
 しかし、私自身の詩作はけっして進歩的ではなく、芸術至上主義的傾向をもっていた。それが作品にどう現われるかといえば、外部世界のことには眼をむけない、戦争が進んでいようと、そういうことには眼を向けない。だから書くことはない。自分で自分の肉体を喰う蛸のような、枯れた、内面の暗さをうたうような息苦しい創作の期間があったわけです。そこには、いわゆる日本型ファシズムによる文化弾圧が行われていた状況があったのです。
 松本隆晴さんなども、当時、幻想的というか、ビジョネールというか、そういうすぐれた詩を書いております。それはフランスの詩人アルテュル・ランボオが発明したヴォワイヤン、つまり見者の美学といいますか、あるいは見者の詩学といいますか、そういうものにならって、意識的に錯乱的な幻想的なビジョネールを詩だと思って書いたわけです。後にランボオのことを調べてみますと、ある時ランボオは、そういうビジョンの世界に逃げこんでいったのですが、それ以前はレアリストであり、レアリズムの詩を書いております。パリ・コミューンの激烈な戦いを詩の中に書いています。「ジャンヌ・マリーの手」という詩では女性戦士の活動を賛美しています。それから「パリのどんちゃん騒ぎ」という詩では、コミューンが敗北して、そこでブルジョアジーがヴェルサイユから再びパリへ戻ってきて、どんちゃん騒ぎをはじめるという光景をきわめてリアルに描いています。絶望的な中にも革命に一抹の希望を托するような詩です。ところがコミューンの敗北が決定的になると、見者の美学の境地に入るのです。もう現実のことはだめだから、ビジョンの世界を書くということになる。それをしばらく書くと、もう詩を書くことをやめて、放っぽってアフリカの砂漠へ消えてしまいます。そこにもやはり、コミューン後戒厳令がしかれていたというきびしい状況があったのです。
 アラゴンは、ランボオについて次のようにいっています。
 フランスのブルジョア社会で、彼に耳傾ける聴衆がいなくなった時、ランボオは絶望してアフリカへ消えた。そういう偉大なランボオを讃えよう。
 こういっているのです。
 さて、私たちの参加していたモダニズムの詩誌でも、シュルレアリズムのことは幾分紹介しています。シュルレアリズム、つまり超現実主義という、かなりビジョネールな、反抗的な詩を書きながらアラゴンは共産党と結びついて、早い時期(注 一九二七年)に入党しています。この時期のことを彼らは「シュルレアリスト・コミュニストの時代」と称している。ですから、私が『新領土』に参加していた時期に、フランスのシュルレアリストはどんどん政治革命運動に入っていったのです。ところが私たちの日本では、そういうことは殆どできない。シュルレアリスト・コミュニストの詩人のやっていた役割を日本ではプロレタリア詩人がつとめていたのですが、それが弾圧されて、プロレタリア文化連盟が潰滅状態になった後に『新領土』が発刊(注 一九三七年五月)されたのです。だから『新領土』では、政治問題や革命などは問題として登場しなかった。意識的に避けていた。当時のあるモダニズムの詩人のなかには「人生」という言葉さえ忌避する人もいた。ましてや現実などというものは反映されない。ただきらびやかなうわべだけの詩であって、ほんとうの芸術的な内容、芸術的な価値はきわめて稀薄なものでした。
 戦後になっても、その頃と同じ詩を書いている人もいます。ひとつの詩形式にはまってしまうと、詩人はそこからなかなか抜けられないもののようです。私もそういう仲間のひとりだったのです。私は、そんなことでは自分の詩は書けないと思い、戦後いち早く共産党に入って、何か実際の、状況の詩を書きたい、外部世界にも目を向けたい、そういうつもりで入党しました。三十六歳になっていました。一応人間的な形成を終えてから、レアリズムの問題をはじめから追求し直さなければならなかったのです。
 いま、ここで、詩の一番中心の問題は何かといえば、私個人の体験からして、人間は自分個人内部の世界だけをうたうのではなくて、自分の内面をひとりの人間として育てるのは大切ではあるが、その内面を通して外部世界をも歌うということです。例えばポール・エリュアールが「ゲルニカ」の詩を書いたようは、「ゲルニカ」というような状況が起きたならば、その状況を書けるような詩人になりたい、それが私の戦後の出発の願いのひとつでした。しかし、観念的で、自己の内面ばかりに目を向けている詩作態度、発想というものは、外部をとらえるのには向いていないのです。なかなかレアリズムはつかめないのです。『反戦のこえ』に載った詩「鳩の歌」でも、平和を守るというテーマを訴えながらも、どうも観念的であるという自己批判をしなければならないと思っております。
 レジスタンスの詩の話までいかないのに、所定の時間が過ぎようとしています。
 さて、そういう日本とフランスの文化の違いについて少し考えてみます。
 経済大国の日本は、もはやフランスを凌ぐ、世界で屈指の先進国です。しかし、人民の権利、意識、力などを綜合した文化では、五十年、百年の遅れがあるのではないかと思われます。時間的な遅れというよりは、文化の質の違いがあるのではないかと思われます。
 第二次世界大戦下におけるフランスのレジスタンスを養いつくり出す伝統というものは、すでに一八三〇年代からあった。一八三一年十一月にリヨン市の絹織物工場の労働者たちが立ち上がってストライキにはいった。資本家は政府に軍隊の出動を要請したため、市街には八十九人の死体がころがった。この光景を見たマルスリーヌ・デボルド・バルモール夫人は、涙を流さんばかりの怒りの詩を書いた。夫人はそれまでは甘い恋愛詩ばかり書いていた人だった。その詩人が、リヨン市民に、リヨンの労働者にその詩を捧げているのです。
 つぎに、一八七一年のパリ・コミューンの時には、ランボオもうたいましたし、ヴィクトル・ユーゴー、──あの『レ・ミゼラブル』の大ユーゴーが、『恐るべき年』という一冊の詩集を書いて、ヴェルサイユ反動軍の暴虐な虐殺、弾圧ぶりをきわめてリアルにあばきたて、コミューンに参加した人民を擁護しているのです。
 ヴィクトル・ユーゴーの父は、ナポレオン配下の将軍でした。彼は青年時代には上院議員で、当時の宮廷のスタッフでさえありました。そんなユーゴーがだんだん人民の側に移行してゆく。こんな姿がフランス文化のすばらしい典型といっていいと思います。こんなユーゴーでさえ、当時は文学史家から抹殺され、今日でもユーゴーの評判はフランスではあまりよくない。文学の中でも階級闘争が激烈に行われているのです。文学史すら、ユーゴーなど大したことがないと歪曲して書かれているのです。こうして話している私自身が、ユーゴーについて語れるのは、アラゴンがユーゴーを擁護しているのを知ってからです。
 「トルストイはロシア革命の鏡であるとレーニンはいったが、同じようにヴィクトル・ユーゴーはフランス革命の鏡である」という名言を書いています。
 人民の側に立った批評に助けられて、私たちもユーゴーに対する眼を開いていくわけです。こういう伝統がさきの第二次世界大戦で、あの大勢の詩人たちがレジスタンス運動のなかですばらしい詩を書いて、フランスの解放に奉仕したわけです。
 最後にレジスタンスをほめたたえた演説の一節を朗読します。第二次大戦が終った時、レジスタンスの夕べという会が催されまして、その時に、あのカトリックの小説家であるフランソワ・モーリヤックが述べた演説の一部です。モーリヤックが戦争中のことを思い出して書いていますので、戦争を知っている世代の人は、戦争中のことを思い出してお聞き下さい。
 「この暗黒の数年間ほどに、かくも多くの詩人がフランスに輩出したことはなかった。多くの詩人たちは、あえて自分の声を包み隠そうとはしなかった。散文で書いたなら、その作者が銃殺されるようなことがらが、詩の形式のもとでは、しばしば敵の検閲官の眼をくぐり抜けたのである。
・・・ここでもまた自由は人びとの奉仕によってかちとられた。ドイツ軍がフランスの咽喉(のど)もとを締めあげたので、フランスの詩人たちはみずからを解放した。詩人たちが、自分たちのためにだけうたった、あのふしぎな歌──おのれの孤独な陶酔のために発明したあの音楽──あのほの暗い濁った水は、とつぜん明るい澄んだ水となった。こうしてここに死ぬばかりに渇いた人民の咽喉をうるおす力を、詩人たちは手に入れたのである。彼らは敗れて血にまみれた。だが、この苦しみ悩む大地との触れ合いは、難解な詩を書くという病気から詩人たちを癒したのである。
 レジスタンスの詩人たちは、自分たちの詩の香りが遠く海を越えて行ったことを知るよしもなかったし、あの海を越えてのふしぎな交感に気づくよしもなかった。だが、はるか遠い彼方でフランスを愛することをやめなかった人びとは、じつと声なきフランスに耳を傾けていたのである。」(拙著『レジスタンスと詩人たち』白石書店版、一七六ページ)
 まことにレジスタンスのなかで、レジスタンスのために、ほの暗い濁った水は、とつぜん澄んだ水になったのです。
           (筆者は詩人)

<掲載誌不詳 一九八四年六月十日、反戦詩人の会(上田市民会館)における講演より>
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