博光が尾池さんに語った言葉「雑誌の編集を手伝っていて戦争中、紙の配給が無くなって いよいよ出せなくなって こっちは失業だから軽井沢の女学校の先生の話があって 荷物も送って行ったら 校長はいいって言ったんだけど あいつは赤だからだめだって そこから二〜三時間だから松代に帰って でもそれが良かったんだね 結核の療養をして 半年くらいいたんだよ・・・(尾池和子『博光語録』──静江さんと出会って)
これによると、昭和19年5月に軽井沢に逗留していたのは軽井沢啓明学園への就職が内定したためと考えられる。東京から荷物(書籍が中心)を軽井沢に送って待機していた。ところが長野県教育委員会から許可が下りなかった。啓明学園関係者の鮎沢露子と会ったのも偶然ではなかったようだ。そのまま松代に帰省して結核の療養生活に入った。このへんの経過は昭和19年の日記には書かれていない。
これによると、昭和19年5月に軽井沢に逗留していたのは軽井沢啓明学園への就職が内定したためと考えられる。東京から荷物(書籍が中心)を軽井沢に送って待機していた。ところが長野県教育委員会から許可が下りなかった。啓明学園関係者の鮎沢露子と会ったのも偶然ではなかったようだ。そのまま松代に帰省して結核の療養生活に入った。このへんの経過は昭和19年の日記には書かれていない。

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