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八月二十九日  千曲河畔にて──軽井沢日記(昭和19年)

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 八月二十九日  千曲河畔にて
この頃は、詩人の見るべき二つの薄明──黎明と黄昏のそれを釣などによって過ごしてゐる。今朝も四時に起きて千曲川へ向ふ。東の空にオリオンが懸ってゐたが、蒼白く瞬きながら、薄っすらとやがて消えて行った。四囲の山々のうへに、空が紅に明けはなれて行くと、まるで巨大な薔薇の花びらの中に立ってゐるやうであった。かうして、素朴な期待にみちて糸を垂れてゐると、時の流れるのも忘れはててゐる。素朴な忘却に浸ってゐると、生も軽やかである。
 黄昏の微光が消えて、闇影が河面を這ひ始めると、今まで美しかった流れも急に恐怖を与へるやうに見える。繁った柳の蔭の暗さは深く、その蔭の流れの深みへ、このまま歩み入ってしまいはせぬか、屢々そんな誘惑の怖れを覚える。しかし、このやうにふと神経的に思惟する死は、柳の蔭のやうに暗く、深く、しかも甘美に見える。
<ノート戦前-S19>

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