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今朝、浅間が爆発した──軽井沢日記(昭和19年)

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 八月十三日
今朝、浅間が爆発した。入道雲のやうな爆煙が、雲一つない麻の蒼穹にそそり立って、朝の太陽に、まるで薔薇のやうに輝いてゐた。やがてこの爆煙は風に流れて、沓掛一帯に灰となって降りつもった。緑の樹木も屋根も、時ならぬ白灰色の雪に覆はれて、陽光に鈍く光って、かへって暑さうに見えた。髪の毛に降りそそいだ灰を、白髪を払ふやうにして歩いて行く外国人もゐた。

 八月十四日 沓掛にて
あまり永い孤独のなかで、独白ばかり続けてゐると、無人島の闇に語りかけてゐるやうな不安を覚え、その不安が昂まると、自己を自ら無の深淵へと導いて、深淵を覗きみてしまふ。深淵には何もみえない。深淵はわれらの思索を吸ひ尽して、ただわれわれの無力さのみを還へしてよこす。こんな袋路に突き当たったが最後、そこから引返すのは容易ではない。もう忘却よりほかに救ひがない。ところが、かういう深淵は まるで 時間の中に口を開いてゐるかのやうに、容易に忘却さへもできない。それもその筈で、実はわれわれの内部に口を開いている深淵であってみれば、さう簡単に、石を投げるやうに、投げ捨てるわけにはゆかないのだ。これも「肉体の棘」なのだ。
 こんな時に思ふのは、やはりわれわれは信仰も信念(コンヴィクション)さへももってゐないといふことだ。せめて神にでももってゐたなら、こんな深淵ももっと精神を深めてくれるにちがいない。神をもたない故に、われわれは袋路のまま、それを突き破って飛躍することもできず、また希薄な道へ引返へすしかない。そこで悲劇が──救済の悲劇が演じられる筈の劇場の入り口を覗いて、もうそこから身を退(ひ)いてしまふのだ。戦慄が悪しき諦念を喚ぶ。これが深淵へ身を躍りこませる勇気と追求力とを奪ってしまふのだ。躍りこんで、無の深淵の向側へ突き抜けなければならぬ。たとへ、そこに真珠を見出すどころか、溺れることなく戻ってくるのが困難であるにしても、身を持って奪ひとった「空虚」はなほ燦然と輝いてゐるであらう。
 われわれはいつも空虚から出発して空虚へ帰ってくる。空虚から空虚への遍歴の途上、ふと未知や永遠にめぐり会ふこともあるが、それらは稲妻のやうに閃き去ってしまふ。後にはまた永い空虚の夜が続いてゐる。しかし、かういふ醒めた睡眠が、一瞬の充実の夢を夢みるのだ。昼と夜が、覚醒と睡眠が、われわれの外部と内部とに、交互に訪れる・・・
<ノート戦前-S19>
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