アラゴン詩集『詩人たち』──聞こえる 聞こえる・・・

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  聞こえる 聞こえる・・・ (アラゴン詩集『詩人たち』)

聞こえる 聞こえる この世のざわめき
街をゆく ひとびとの 足音
自分の心臓の 音にもまして 聞こえる
悪い世の中 わたしの心は くたびれた

勇敢さ 大胆さが 足りなくて
みんな おのれの道を 歩いてゆく
危ない橋を 渡って 何も変らない
なんにも起らずに としを とる

春の日に 何を きみは夢みた
ひとは 出会うひとの 手を握る
ああ 舗道に 言葉を残すがいい
できるなら 失われた時を数えるがいい

あの顔 この顔 たくさんの不幸な
ひとびとを わたしは 見てきた
彼らのために わたしは 何をしたろう
わたしの 気力を むだ使いしたほかは

一週間 のうちの 日曜日のように
真実 のなかの 希望のように
暗い影が 人間らしく なるように
うたい うたい うたうほかには

死んだ ひとも たくさん見た
みんな ひたすら 火を求めていた
ほんの わずかなもので 満ち足りて
ほんの 小さな 怒りを胸に抱いて

その足音が 聞こえる 声が聞こえる
それは 月なみのことを しゃべってる
まいにち 新聞で 読むような
夕ぐれ みんなが 家で話すような

男たち女たち きみたちは どう扱われたか
こき使われ 擦りへった 柔(やわらか)い石よ
うちひしがれた きみらの 姿
きみたちを見れば 胸が 裂かれるようだ

この世のことはなるようになる
ときどき 大地が揺れる 震(ふる)える
不幸は不幸に 似ているのだ
根深い 根深い 根深い不幸

きみらも空は青いと信じたかったろう
その気もちはわたしにもよくわかる
わたしもまた時に信じるのだ
鏡に映った雲雀のように

告白すれば わたしも しばしば信じる
わたしの耳を信じないようにと
ああ わたしは きみたちのなかまだ
ああ わたしは きみたちに似てるのだ

砂糖と 砂粒のように 似ているのだ
いつも 流れる 血のように
いつも 傷つく 指のように
ああ わたしは きみたちの同類なのだ

いまは 何時だろう 天気はどうだろう
わたしは やはり 自分は失われようと
どれほど きみたちのために 働きたかったことか
どれほど きみたちに役立ちたかったことか

それは つつましい 愚かな夢だ
むしろ口にしない方がいいのだ
わたしをいっしょに土に葬ってくれ給え
深い穴の底の ひとつの星のように

君たちの役に立ちたいと どれほど願ったことか
別のわたしじしんにも似た きみたち
だが わたしは暗い風の中に 言葉を撒いた
きみたちにきこえたかどうか 誰が知ろう

すべては失われ 何もきみたちにはとどかない
わたしの言葉も わたしの手も
そしてきみたちは 自分の道をゆく
わたしが 何を言ったかも 知らずに


 解説 この詩に現れる「ああ わたしは きみたちのなかまだ/ああ わたしは きみたちの同類なのだ」という詩人の叫びは、アラゴンの基本的な思想であって、それは『エルザの狂人』のなかの「いまや語るのが作者なのかメジュヌーンなのかわたしにはわからない」の中にも、熱っぽく歌われている。

 わたしは明日(あす)のきみのすすり泣きを語る男だ
 わたしはきみのために手首を切る哀れな男だ
 見たまえ見たまえ わたしは他者ではなく きみ自身なのだ
 わたしはきみだ きみに言おう わたしはきみだ そしてきみのためにわたしは死ぬのだ・・・

 ここに歌われているのは、ブルジョワ個人主義の克服をめざした、新しい人間のモラルであり、その実践であると言っていい。
 このことを簡潔に表現した、詩人ジャン・コルスナックの言葉がある。それは一九八二年十二月二十八日付「ユマニテ」紙のアラゴン追悼号によせられた悼辞の中にある。
 『死んだのはひとりの貴公子(プリンス)ではない。それは生涯、他者をみいだすために作品と行動をささげた男である。・・・彼は「われ」から「われわれ」への移行、「おれ」から「おれたち」への移行にたいへん貢献した。この移行は恐らくわれわれの時代の根本的な知的変化であろう。」(大島博光『アラゴン』《新日本出版社》二二九ページ)

<自筆原稿>
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