生をいざなふ夏子──軽井沢日記(昭和19年)

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・八月十日 沓掛にて
頭脳を整理するため、沓掛に来て、高原の清涼を吸ふ。白い野菊や淡黄紅色の豆の花などには、もう初秋の色が漂ひそめてゐる。落葉松林のなかを散歩してゐたら、野菊の草叢のなかに、雉子の羽根が一本おちてゐた。羽根ペンにもなりさうな色美しい雉子の羽根を拾って手にしてゐると、落葉松の木漏れ陽が、緑に羽根を染めるやうであった。するとまた何故か、ふと或る知られざる詩人の死を想ひだした。・・・この知られざる詩人は、どこかの区役所に務めてゐた多人風変りな吏員で、もう四十才を越したのにまだ独身で、脳溢血で死んだ。死後、彼の机のひきだしの奥からは、誰にも見せなかった詩稿が見出された・・・「知られざる詩人は神の傍最も近くにゐる、といはれるが、隠れて生きる者はいつも美しい。知られざる詩人も、美しい羽根を路傍に遺して、どこか遠い、深い林の中に深く隠れてゐる雉子に似てゐるではないか、或ひは雉子も、その死を深く秘める前に、ふとこんな羽根を一片、地上に落して行ったのかも知れぬ。さうして、孤独な散索者の眼に、色美しく、ふと留まったのであらう・・・この羽根も、かっては軽やかに羽搏き、林の静けさを、いっさう深めるために、そっと空気を揺すったのだ・・・
 やがて秋が思索の時間を運んできてくれよう。私は恋人を待つやうに秋を待ってゐるのだ。女性名にして「秋子」を待ってゐると言った方がふさはしいかも知れない。さうだ、秋子が来たら、私の孤独も賑やかに、豊穣に、色彩られるだらう。静かな、澄んだ秋子は、私の重い独白を風のやうに解き放ってくれるだろう。さうして、失ってゐた神や秘密を、私はまた見出すことが出来よう・・・そんな秋子との出会ひのために、今は夏子にむかって訣別の挨拶をしなければならぬ。すべてのものを熟れしむるやうな過剰な光りと熱で夜を奪ってしまふ夏子・・・生を太陽の下へ駆りたてて、生の内なる影をも吸ひつくしてしまひ、──さうしてまた新しい、より深い影を生に与へてくれるのだが──かうして白熱の忘我に生をいざなふ夏子・・・半裸で、蕾のやうに膨らみはじめた乳房を、小さな堅い乳房を両手で隠しながら、水の中に躍り込む乙女たち・・・小麦色の乙女たち・・・太陽の下で、他愛なく、白い歯を見せて笑ひさざめく彼女たちも、今はまるで光りそのもののやうに明るく透明であるにちがひない。これこそほんたうの青春の夏でなければならぬ。しかし、その溌剌とした明るい眸のなかにも、闇が隠されてゐるのだ。この闇がいつも彼女たちを輝かせ、微笑ませてゐるのだ・・・
 夏子の白熱する沈黙の中に、ふと死を見出し、感ずることは、何んといふ魅惑であらう。過剰な光りが、ひとを盲目にするやうに、それはまたすぐ死と隣り合ってゐるのかも知れぬ。激しいものの中にはいつも対立が隠されてゐる。
<ノート戦前-S19>
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