ランボオの『イルミナシオン』 (中)

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ランボオの『イルミナシオン』(つづき)
 
 「右手には、もう夏の夜明けが、公園のかたすみに、木の葉や、もやや、ざわめきなどを呼びさまし、左手の斜面には、まだただようすみれ色の影のなかを、車のわだちがいく本も、ななめに、しめった道のうえを走っている。おとぎの行列が通った跡だ。ほんとうだ、金ぬりの木の動物たちを積みこみ、色とりどりの旗ざおや幕をめぐらした車が、いく台も、ギャロップで駈ける曲馬団の二十頭ものまだら馬にひかれ、子供や大人どもが、世にもめずらしいけものにまたがり──いく台もの荷車が、なわでつながれ、旗をおし立て、むかしの四輪馬車や、『物語り』の馬車のように、色はなやかに飾りたてられ、田舎芝居にでる子供たちが、けばけばしく飾りつけられて、あふれるように乗っている。──それにつずいて、棺(ひつぎ)がいくつも、夜の天がいのしたから、まっ黒な羽根かざりをおしたて、大きな青や黒の牝馬たちのだく足につれて、ゆらゆらくりだしてゆく。」

 詩人は、さわやかな夏の夜明けの感じからえがきはじめながら、たちまち、いつか見た曲馬団の行列をおもいうかべ、そのまぼろしをよびだし、えがきだしている。その異様な影像そのものに酔いはてているようにさえ見える。詩人はここでも、現実から幻想のなかえと身をうつし、一枚の色ぬり画をえがくことで満足し、むしろその奇妙な影像をほこっているように思われる。
 『神秘』とだいする散文詩もまた、まぼろしと夢にみちている。

 「なだらかな斜面の坂のうえ、天使たちは毛のきものをひるがえす、牧草がはがね色にまたうす青いろに、光りかがやくそのなかで。
 燃える牧場は、まるい丘のうえまで、燃えあがり、はねあがってくる。左の方、高台の台地は、入りみだれた人殺しどもや、戦いでふみ荒らされ、不吉な叫びごえや、ざわめきが、曲線をえがいて流れてくる。右手の高台のうしろには東方えの道がのび、進歩がある。

 さて、この場面のうえの方、おびのようにほそながい空地で、夜のなかを駈けめぐる人間たちのどよめきや、ほら貝の音が、いりみだれ、はねかえる、そのあいだ、
 一方、またたく星の群れや、空や、その他もろもろの、花のような甘いやさしさが、斜面のうええ、花かごのように降りてくる、おれたちの目のまえに。そうして下のほうの深淵を、香ぐわしく花のように匂わせ、青く青くそめるのだ。」

 月の夜、斜面の草のうえに横たわった詩人は、風景と幻想と、まぼろしの音とを、思うままに組みあわせている。まぼろしに聞く「不吉な叫びごえや、ざわめき」の音にたいして、「星の群れや、空の、花のような甘いやさしさ」が対照させられ、ぜんたいは、色彩、音、匂い、触感などの協奏曲をかなでている。
 これらの作品には、ボオドレエルの「万物照応(コレスポンダンス)」の教義の影響や、エルベシウスの感覚的唯物論のえいきょうがはっきりあらわれている。しかし、それらにもまして、はっきりよみとることのできるのは、ほとんど意識的な幻想や幻覚の歌いだしであり、呼びだしであり、それらえの没入である。かってのはげしい社会的関心や、容赦なきリアリズムは、まったく影をひそめ、詩人はひたすらまぼろしをつくりだし、えがきだすことに没頭している。かっての革命的な精神は、いまはただ色うつくしい「色彩画」の画家となり、芸術の革命をめざしているように見える。しかし、そのはなばなしい感覚の解放、幻想の自由な拡大にもかかわらず、──これらはのちのキウビズムやシウルレアリズムにふかい影響をあたえたものだが──それはいぜんとして、ランボオのあとじさりを示すものであり、のちにかれみずから名ずけたように「気ちがい沙汰のひとつ」であったろう。
 このような幻覚、言葉によるまぼろしの呼びだしを、ランボオは、「言葉の錬金術」と名ずけ、『地獄の季節』のなかでつぎのように言っている。

 「おれはもうながいこと、ありとあらゆる風景を、思うままわがものにしうると誇ってきた。そうして近代詩や絵画の大家たちをあざけってきた。・・・
 「おれは母音の色彩を発明した。・・・おれは沈黙を書き、夜をえがき、いい現わしがたいものを書きとめた。おれはめまいをも書きとどめた。
 「おれはそぼくな幻覚をみることには馴れていた。おれは手もなく、まのあたりに見た、工場のかわりに回教寺院を、天使たちの太鼓の一隊を、空の街道をはしる四輪馬車を、みずうみの底に沈んだサロンを、無数の怪物を、神秘を。・・・」

 ここでは、ランボオのブルジョア社会にたいするぶべつと憎悪が、平凡なもの、凡俗なものえのぶべつとなってあらわれ、ことさら異常なものをかかげ、ほこっているが、それはけっきょく敗北的なイロニイでしかない。かっての革命的なヒロイズムは、ここでは、単なる閉ざされた芸術のうちがわにおける、芸術家的なヒロイズムになっている。そうしてランボオは、これをみずから「おれの気ちがい沙汰のひとつ」とよび、「それは過ぎさってしまったことだ。おれはこんにち、美におじぎすることができる」と、のちに否定しているのである。
(つづく)

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