ランボオの『イルミナシオン』(下)

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 このような幻覚を得るために、ランボオは酒やアヘンのたぐいまでも用いていたらしい。かれは、それらのしげき剤による酔いのさなかにおける幻覚をえがいているばかりでなく、なにか、酩酊のモラルとでもいうべきものまでも歌っている。『イルミナシオン』のなかの『酔いどれの朝』、『眠れぬ夜』などの散文詩には、そのような酩酊による幻覚と、精神状態(エタ・デスプリ)とが、二重写しのように美しくかさなりあって、そこから詩人の傷ついたたましいの影像、苦悩とたたかいに色どられた影像が、うかびあがってくる。『眠れぬ夜』では、酩酊のさなかの影像がつぎのように描かれている。

 「ともしびの明りが、家の木組を照らしている。なにか、がらくたを飾りつけた部屋の両はじは、よく調和しながら高まって、つながっている。眠れぬ男が面とむかっている壁のうえには、コップの影や、青い壁掛けや、ふんいきをかもしだすおびのような壁布や、かべのうえを走っている地図のようなひびわれが、まるで心理模様のように、つぎからつぎえと現われる。目にうつるすべてのものが、いろいろなかたちをしてあらわれ、生きものの群れのように、目まぐるしい強烈な夢となる。・・・
 ・・・中ほどまでは、うす緑のレースで編んである壁掛け。その緑のなかから、眠れぬ夜のきじ鳩のむれが飛びたつ・・・」

 しかし、この酩酊者は──「眠れぬ男」は、酩酊そのものにも酔えず、酩酊によるこの美しい幻覚にも酔えず、どこか醒めている。この美しい影像をよびだしたそのあとで、かれはまたつぎのように書かないではいられぬ。

 「おまえはまだ聖アントワーヌの誘惑にかかっているのだ。・・・
 ・・・おまえがこの世から出ていってしまったら、この世はどうなるだろう?どのみち、いま目のまえにあるこんな眺めも、なにひとつ残るまい。」

 詩人はいまや、じぶんのよびだした影像を惜しみながら、「この世から出てゆく」という絶望をも洩らさないではいられない。
 さらに『酔いどれの朝』においては、酩酊はいつか詩人のモラルそのもののよそおいとさえなっている。酔いどれ──この毒を飲むことが、「おお、おれの善よ、おれの美よ」とよばれ、ふるいキリスト教社会における「善と悪の木」にたいするイロニイとなっている。

 「・・・ひどい楽隊のどんちゃん騒ぎだ、おお、おれはよろめくまい。夢幻劇につかうような拷問台!・・・今こそおれたちには、こんな拷問がぴったり似あうのだ。神につくられたという、おれたちの肉体とたましいに与えられたこの超人的な約束を、いっしょうけんめい果してやろう。・・・お上品、知恵、強迫、くそくらえ。善と悪の木はもうやみに葬りさられたと、おれたちには約束されたはずではないか。・・・
 かれんなてつ夜の酔いどれだ。聖女よ、だがこれはただ、おまえさんが授けてくれた仮面をかなぐり捨てるためなのだ。・・・おまえさんはきのう、おれたち同じ年頃の者どもに祝福を垂れてくれたが、おれたちはそれを忘れるまい。おれたちはこの毒を信じているのだ。おれたちは毎日でもこの毒に、おれたちの命ぐるみをささげるのだ。

 今こそ『暗殺者』たちの時刻だ。」

 ここでは、酔いどれることがキリスト教にたいする反抗として対置され、みごとな価値顚倒のモーメントとされている。そうしてここでは、酩酊による幻覚のかわりに、反抗の精神がめざめ、それがみごとな象徴のことばを見いだしている。「毒」にたいするイロニイにみちた信頼が『暗殺者(アッササン)』という酒にゆかりのある言葉をよびだしている。フランス語の暗殺者 assassin ということばは、haschischins より転じてきたことばで、haschischinsとは、中世にひじょうに恐れられたイスラムの異教徒たちで、かれらは haschisch 、すなわちインド麻からとった強い酒に酔わされ、その酔いの苦しさと高奮にまぎれて、敵の首領たちを暗殺しにゆく役目をひきうけたのである。「今こそ『暗殺者』たちの時刻だ」という一行は、そのような暗殺者たちの酔いの状態をいいあらわしてると同時に、詩人じしんの反抗的な精神の状態を、みごとに象徴しつくしているのである。
 この暗殺者ということばは、もう一度、『やばんじん』という詩のなかに、おなじような意味あいをもって、あらわれてくる。

 「・・・また、英雄主義をかきたてる、古くさい軍楽隊ががなりだし──またしても、おれたちの心臓やあたまを攻めたてる──もうむかしの暗殺者たちよりは遠くへだたってきたのに。」
 さらに、『地獄の季節』のなかの『地獄の夜』においては、この毒はいっそう象徴的に高められ、そこには、はげしい絶望と苦悶のひびきがまとわりついている。酩酊の感覚的なものが、精神的なものに置きかえられ、高められている。

 「おれはのどいっぱい、ぐっと毒をあふった。──今までおれのうけた忠告には、せいぜいお礼をのべよう。──ああ、はらわたが焼けつくようだ。毒のはげしさに、手足はよじれ、形相はかわり、おれは地上をのたうちまわる。のどがかわいて死にそうだ。息がつまる。わめこうにも声さえ出ぬ。地獄だ、永遠の責苦だ。見ろ、この火の燃えあがりよう!おれは思いきりよく燃えている。・・・」

 このような「毒」の地獄的なモチーフから、詩人の精神の地獄がくりひろげられてゆく。またしてもキリスト教との対決、革命的野望の思い出、世界救済者の夢想、これらのいつものランボオ的なテーマが、そこにちりばめられ、くりひろげられて、この地獄のソナタを構成するのである。「毒」はもはや、酩酊をつくりだすというよりは、地獄の影像をよびだし、地獄の伴奏となり、あるいは「地獄の火」をいっそうかきたてるよすがとなっている。
 アルコールもアヘンも、詩人のたましいの渇きをいやし、眠らせるどころか、いよいよ詩人のたましいの傷ぐちをひらかせ、うずかせ、地獄をふかめるばかりである。
 こうして、『イルミナシオン』において、言葉の錬金術は色うつくしい多くの影像をつくりだしたが、そこで弱められ、うしろえ引きもどされていたランボオの反抗と怒りは、ふたたび『地獄の季節』のなかに、ばくはつ的に立ちあらわれてくる。しかしそれは、そのあとにつずくランボオのふかい沈黙のまえの、ブルジョア社会にたいするにがにがしい別れの、詩人の最後の声として。──

<発表原稿 詳細不明>

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