田舎の静けさの中には──軽井沢日記(昭和19年)

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七月六日 
 田舎の静けさの中には 時間といふよりは持続がある。詩人の凝視と夢想を包んでくれる持続と薄明がある。その持続の中でのみ、詩は果実のやうに静かに熟してゆくのだ・・・
 雨が庭木を緑に煙らせながら、木の葉を叩くやうに降っている。そんな雨の庭をぼんやり眺め、雨の音を聞いていると、少年時代の怠惰な、─遊びを奪はれた少年の退屈な雨の日の静けさと憩ひとが、そのまま心に蘇ってくる・・・ つれづれなる倦怠は、年齢には関りなく、いつも静かな一種もの憂い虚しさと、しかも多少甘美な郷愁のやうな感情とを漂はしている。こんなひとときはまた未来の中に横たはっているにちがいなひ。こんな瞬間こそ、精神の睡眠であって、その故に醒めた夢なのだ・・・
 田舎の静けさを今度の隠栖ほど深く味はひ、その静かな時間を瞑想をもって埋めたことはない。空しい都会での彷徨を、今は空しく追想するばかりである。私の彷徨の時代も終わったらしい。いやもう終わらさねばならぬ。それにもう二度と都会へ出ない方が、私にはよいことにちがひない。ピレネエの山の中に引きこもったまま、殆んど巴里に出なかったフランシス・ジャムの聡明さを学ばねばならぬ。プルウストも、社交界より退いて後に、「失ひし時」を求め得たのであった。
東京での青春の浪費と彷徨を──失ひし時を、私も今こそ回復し、とりもどさねばならぬ。田舎で朽ち果てるなら、それは田舎のゆえではなく、自分の想像力の弱さにかかっている。自己を試みるにもかへって田舎はよき荒野であらう。空しい時間の浪費と、神経の消耗と──自己の分散よりは、どんなに倦怠の方が好ましく、自己の集中への道となることだらう。
 
 凝視の意味を教えてくれたのも倦怠であった。倦怠はいつか対象を捉へ、いつか見ることによって、「眼」によって怠惰ながらも推理を始め、見開いたまま、眼は白日の中で夢みはじめる。目前の対象はいつかそこに存在しない他の多くのものを隠しているやうに、眼に訴へかける。或ひは眼がそれら在らざるものを見るのだ。かうして倦怠は怠惰に創造をめぐらし始める・・・実際に視覚に映るものと、内部視覚ともいふべき映像とは、どのやうな関りにあるのであらうか。

<ノート戦前-S19>
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