松本隆晴「中将愛星の死」

ここでは、「松本隆晴「中将愛星の死」」 に関する記事を紹介しています。
 松本隆晴氏は戦前の蝋人形の時からの博光の友人で、彼が博光に送った資料が保存されています。早逝の詩人・中将愛星の思い出を松本隆晴氏が信濃毎日新聞に書いていることを以前紹介しました(「葦笛よりも美しかった中将愛星」)。中将愛星について知りたくても記載したものは殆んどありませんので、この文章は貴重です。あらためて全文を紹介させて頂きます。

   ◇    ◇    ◇    ◇ 

 中将愛星の死
                松本隆晴 
詩魂のさえに驚嘆
願望の象徴とし今も心に

 僕が中将愛星の名前を覚えたのは、蝋人形に投書を始めた頃である。詩欄に、小曲欄にいつも載っていたその名前は、推薦詩のページに移り、やがて準同人に、そして同人へと目覚しい躍進振りを示して僕をうらやませがらせたものだ。その中将愛星と初めて巡り会ったのは、大島博光と一緒に西条先生のお宅にいた時のことである.大島が伊藤寛之君すなわち詩人中将愛星だよと紹介してくれたのである。なんと彼は早稲田大学の政経科の学生であった。だから彼の名前を僕が蠟人形の投稿欄で知ったのは、まだ彼が中学生の頃なのである。
 その早熟というか、天才というか、すばらしい詩魂の冴えに僕は驚嘆して彼を見つめた。文学の世界には時折このような存在を生み出すことがあるらしい。彼は中学生時代には病気で休学したこともあったというが、その当時は肩幅広く背も高く、整ったその顔はギリシャ彫刻に日本人の色をつけたようであった。初対面で握手を交わした僕たちは忽ち意気投合した。僕が彼の無類の躍進をうらやましがっていたのに、彼はまたひそやかに僕の作品にひかれていたと言うのである。三人はそのまゝ新宿へくり出して、大ジョッキで乾杯し、光輝ある出会いを祝した。それからというものは、僕が東京へ出るたびに彼は僕の前に現れて、影の形に添うような関係になったのである。

 その頃の彼は一方では<火冠>という同人雑誌に小説を書き続けていたが、詩作の方も花々しく、早稲田の第二の校歌と言われた<若き学徒の歌>も彼の作であり、西条先生も彼には随分望みをかけておられた。
 その彼が昭和十五年も終わりに近いある朝、突然下宿で喀血して倒れたのであった.その知らせに僕たちは驚いたが、誰もが彼のたくましい体力による恢復を信じていた.しかし、その後三ケ月もたゝない、昭和十六年二月十九日に彼は忽然としてこの世を去ってしまったのである。極度に進行の速い結核であった。信じられないできごとである。早稲田大学の構内には彼の死をいたむ大きな幕が掲げられたという。
 蠟人形には西条先生の哀切極まりない弔辞が載った。今私の手もとには彼が倒れる数日前にくれた一枚のはがきが残っている。小説を書いているという消息の次に、「貴兄はいかゞ。相変らず土地は変れど姿は同じで、痛快児ぶりを発揮しておられることゝ思います。先夜は久し振りで愉快な夜でした」と言い、また近いうちに会いたいと結んであるそのことばには、死の予感など少しもありはしない。
 その頃の彼はしゃれた形のジャンパーを着て、大きく肩を振りながら街を歩いた。十五年の十一月に、彼と最後に新宿で別れた時のことが、不思議なほどに今もありありと心に残っている。駅の前で手を握って別れて、歩き出した僕のうしろから、また「松本さーん」と呼ぶのである。振り返った僕の目に、街角に立って片手を上げている、ジャンパー姿の彼の姿が映った。ジャンパーは風に大きくひるがえり、あたかも彼の姿を空へ引き上げようとしているように見えたが、本当に彼はそのまゝ空の彼方へ去ってしまったのである。
 会って語った時間は短かかったけれども、その心の触れ合いは深かった。彼は今でも僕の心の中に留まって、僕に語りかけている。「松本さん、また飲もうね」と。またしても僕は人の出会いというものの、神秘なカを思わずにはいられない。中将愛星という名前は、人がその若き日に、より純粋に、より美しく生きようと願う、切なる願望の象徴として僕の中に生き続けているのだ。
 大島博光は、かってアンドレ・ブルトンがその友ジャック・ヴァシエの死に際して贈った哀悼のことばを、そのジャック・ヴァシエの名前の部分を中将愛星という名前に変えて、その死を悼んだ。
 「世には特に唯弔文のためにのみインク壷の中に咲く花がある。彼は私の友人であった。彼は中将愛星であった」と。大島と僕は、いつも三人で飲んだホールでジョッキを挙げて彼の冥福を祈りながら言ったものだ。「まさしく彼は葦笛よりも美しい男だったね。」
 日支事変という名で始った日本の中国への侵略戦争は、激しい中国人民の抵抗と、諸外国からの非難の中で、既に五年目を迎えて次第に泥沼の様相を呈していたし、ヨーロッパではナチスドイツ軍が、その強力な機甲部隊の電撃作戦でポーランドに侵攻し、フランスは既に敗れ、数万の若者たちは、あるものは国外に移り、あるものは地下に潜行して、果敢な抵抗の戦いを始めようとしていた頃である。新宿の夜の街に、既にネオンの灯は消えていた。(まつもとりゅうせい=詩人、前長野市篠ノ井東中学校長)

<松本隆晴「思い出の日々 懐かしい人々(14)」信濃毎日新聞 1976年>

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