夕ぐれの微風がさはやかに吹き──軽井沢日記(昭和19年)

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六月七日(つづき)

夕方、再び野に出てみたら、今は太陽を背にして白い巻層雲の霞んでいる空に、アルプスがのびのびと憩ふているやうに見えた。朝の耀やかな偉容に比べると、今はまどろんでいるやうで、矛い光線の中に優しく横たはって見えた。
 夕ぐれの微風がさはやかに吹き、全身をゆあみするやうに、立っていると、殆んど恍惚を覚える。そよぐ麦の穂波の音、草葉の微かな音・・・しばらく陶然として微風に聴き、ゆあみしている・・・ あの伊太利の落日の中で、「生はよきかな!」と晩年の偉大な肯定の幸福に歓喜の声を挙げたニイチエを想はないではいられぬ。緑の風とこの酩酊!このやうな詩を書きたい。苦悩も絶望も忘却せしめ、大地の涯なさを夢みさせ、まるで「不可見」を皮膚の感覚に囁いてくれるやうな微風を創造しなければならぬ。しかし詩では、また苦悩や絶望が深く秘められていなければならぬ。詩では、爽快それ自体といふやうなもののみでは決して深い感動を喚起することができぬ。さはやかな微風でさへ、その対照をもたねば、詩の中を吹くわけにはゆかない。してみれば、この自然の微風のこの魅惑(?)──むしろ心地よさは、如何なる秘密の故に、かくもわれわれを感激させるのであらう・・・

<ノート戦前-S19>
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