大島静江と絵画
──企画展「博光/静江物語」によせて
/大島朋光
愛の物語
──お母さんはよく《お母さんはお父さんと結婚してほんとうに良かった。こんなに良いお父さんは世界中にいないのよ》とまるでうたうたうように私に話してきかせたものです──小林園子さんが語る博光と静江の愛の物語のさわりの部分です。──十五歳も年上で結核、収入のない詩人と結婚して苦労したのに、静江さんは娘の桃子さんにこう言っていたのです──。聞いた方からは「心に響いた」「感動した」との感想を頂きます。
静江は女手一つで花屋を始め、働きに働いて博光を支え三人の子供を育てましたが、一方で絵画や音楽、スキーや山登りなどにも情熱を燃やしてエネルギッシュに生き、たくさんの絵を描きました。大島博光記念館の今年の企画展は「博光/静江物語──ひまわりのように咲いた静江の生と絵」と題して、静江の生き方と絵画に光を当てることにしました。
女学生時代に芸術に目覚める
女学生時代に芸術に目覚めた静江は理想に燃え、封建的町家に反逆していました。卒業後上京して叔母の家に寄宿し、本郷絵画研究所へ通ってデッサンを学びました。画家と交流のあった博光と知り合い、芸術を理解する同志を得ることになります。戦争末期に松代で結婚し、戦後、民主的な書籍の取次商をしながらオルガナイザーとして女性の組織化や労働争議の支援に走りまわりました。
花屋をしながら美術学校へ
昭和二十五年に一家は東京三鷹に転居し、静江は二人の子供を抱えながら花屋を始めたのでした。翌年には武蔵野美術学校の聴講生となり、仕事の合間に絵の勉強に通いました。また、地域の油絵を描くグループに加わって、デッサン会に参加していました。小さかった私は、自転車の荷台に乗せて連れて行かれたデッサン会場で、大人たちがヌードモデルを囲んで描いているのを見て目を見張ったものでした。
静江は子供たちにも絵を描かせたくて「子供のアトリエ」という絵画教室に通わせました。私や弟の絵が東京地区のコンクールに入賞すると大喜びして見にいきました。次男秋光には小学生のうちから個展を開くなどして熱心に絵を学ばせました。秋光は美術大学に進学し、卒業後は学校の先生をしながら絵画の道を歩むことになります。
音楽やスキーに情熱を燃やす
三十才から静江はクラシック音楽に情熱を燃やします。演奏会に通い続け、ヴァイオリンのレッスンを受け、合唱団に参加しました。一方、山野草や野鳥にも熱を入れ、休日には信州などの山々に通いました。五十才にしてスキーに熱中し、冬は毎週のように日帰りスキーに出かけ、絵を描く生活からは遠ざかっていました。
療養生活に入って絵を描く
静江が再び絵を描くのは五十九才でパーキンソン病になってからです。「私の生きがいだったのに」と泣く泣く花屋をやめた静江ですが、やっと絵を描く時間がもてるようになりました。庭に面した部屋の真ん中にベッドを置き、脇にイーゼルを置いて絵を描く生活が始まりました。たくさんの花の絵を描きました。「ただただ花が好きでたまらないという気持ちから、こんなにもいい絵が生まれるのかと、新鮮に感じました」と静江の絵をお持ちの加川さんが述べています。
病気が進行して入院してからも、ベッドの上で必死になってスケッチブックに描いていました。手の震えがひどく、思うように鉛筆が動かなくてどんなに悔しかったことでしょう。
作品について
花や静物、風景、人物、ヌード、自画像などの作品を残しましたが、花の絵が最も多く、ひまわり、アネモネ、あじさい、りんどうを好んで描いています。水彩画もあり、花の美しさを鮮やかな色彩で表現しています。
母の病気を治すためには何の役にも立たなかった私ですが、この様な形で初の個展を開くことが出来て、罪滅ぼしのひとかけらにでもなっただろうかと考えています。
<『狼煙』69号>
──企画展「博光/静江物語」によせて
/大島朋光
愛の物語
──お母さんはよく《お母さんはお父さんと結婚してほんとうに良かった。こんなに良いお父さんは世界中にいないのよ》とまるでうたうたうように私に話してきかせたものです──小林園子さんが語る博光と静江の愛の物語のさわりの部分です。──十五歳も年上で結核、収入のない詩人と結婚して苦労したのに、静江さんは娘の桃子さんにこう言っていたのです──。聞いた方からは「心に響いた」「感動した」との感想を頂きます。
静江は女手一つで花屋を始め、働きに働いて博光を支え三人の子供を育てましたが、一方で絵画や音楽、スキーや山登りなどにも情熱を燃やしてエネルギッシュに生き、たくさんの絵を描きました。大島博光記念館の今年の企画展は「博光/静江物語──ひまわりのように咲いた静江の生と絵」と題して、静江の生き方と絵画に光を当てることにしました。
女学生時代に芸術に目覚める
女学生時代に芸術に目覚めた静江は理想に燃え、封建的町家に反逆していました。卒業後上京して叔母の家に寄宿し、本郷絵画研究所へ通ってデッサンを学びました。画家と交流のあった博光と知り合い、芸術を理解する同志を得ることになります。戦争末期に松代で結婚し、戦後、民主的な書籍の取次商をしながらオルガナイザーとして女性の組織化や労働争議の支援に走りまわりました。
花屋をしながら美術学校へ
昭和二十五年に一家は東京三鷹に転居し、静江は二人の子供を抱えながら花屋を始めたのでした。翌年には武蔵野美術学校の聴講生となり、仕事の合間に絵の勉強に通いました。また、地域の油絵を描くグループに加わって、デッサン会に参加していました。小さかった私は、自転車の荷台に乗せて連れて行かれたデッサン会場で、大人たちがヌードモデルを囲んで描いているのを見て目を見張ったものでした。
静江は子供たちにも絵を描かせたくて「子供のアトリエ」という絵画教室に通わせました。私や弟の絵が東京地区のコンクールに入賞すると大喜びして見にいきました。次男秋光には小学生のうちから個展を開くなどして熱心に絵を学ばせました。秋光は美術大学に進学し、卒業後は学校の先生をしながら絵画の道を歩むことになります。
音楽やスキーに情熱を燃やす
三十才から静江はクラシック音楽に情熱を燃やします。演奏会に通い続け、ヴァイオリンのレッスンを受け、合唱団に参加しました。一方、山野草や野鳥にも熱を入れ、休日には信州などの山々に通いました。五十才にしてスキーに熱中し、冬は毎週のように日帰りスキーに出かけ、絵を描く生活からは遠ざかっていました。
療養生活に入って絵を描く
静江が再び絵を描くのは五十九才でパーキンソン病になってからです。「私の生きがいだったのに」と泣く泣く花屋をやめた静江ですが、やっと絵を描く時間がもてるようになりました。庭に面した部屋の真ん中にベッドを置き、脇にイーゼルを置いて絵を描く生活が始まりました。たくさんの花の絵を描きました。「ただただ花が好きでたまらないという気持ちから、こんなにもいい絵が生まれるのかと、新鮮に感じました」と静江の絵をお持ちの加川さんが述べています。
病気が進行して入院してからも、ベッドの上で必死になってスケッチブックに描いていました。手の震えがひどく、思うように鉛筆が動かなくてどんなに悔しかったことでしょう。
作品について
花や静物、風景、人物、ヌード、自画像などの作品を残しましたが、花の絵が最も多く、ひまわり、アネモネ、あじさい、りんどうを好んで描いています。水彩画もあり、花の美しさを鮮やかな色彩で表現しています。
母の病気を治すためには何の役にも立たなかった私ですが、この様な形で初の個展を開くことが出来て、罪滅ぼしのひとかけらにでもなっただろうかと考えています。
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