パリ・コミューンの詩人たち──ジャン・バティスト・クレマン

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 ジャン・バティスト・クレマン

 ジャン・バティスト・クレマンは、一八三六年五月三十日、パリ郊外のブローニュ・シュル・セーヌに生まれた。父親は水車小屋をもっていて、製粉業を営んでいた。
 かれは十四歳から働きはじめ、大工、酒屋の小僧、人夫など、いろいろな職業について苦労をなめる。モンマルトルに住んでいた叔母の家によく遊びにゆき、そこで芸術家や作家と知り合いになる。こうして学校へ行かなかったクレマンは、独学で勉強する。
 一八四八年(二月革命)のシャンソニエたち──エゲシップ・モロー、ピエル・デュポンらの影響のもとに、かれは『パン層の歌』や反抗の歌、恋の歌などを書く。反抗の歌は、第二帝制の検閲によってしばしば発禁となる。
 一八六六年、クレマンはベルギーに滞在中、あの有名な『さくらんぼの熟れる頃』を書く。この愛のシャンソンは、ただ、さくらんぼの実の熟れる短い季節と恋のつらさをうたった詩のようにも見えるが、しかしまた、人間のよろこび、苦しみ、希望を表現した、多くの意味をもった詩でもある。のちに(一八八五年)、この詩を収めた『シャンソン集』を刊行したとき、クレマンは、コミューン最後のバリケードのひとつでめぐり会った勇敢な看護婦ルイズに、この詩をささげた。こうして、この詩の書かれた一八六六年という日付は忘れられて、一八七一年の春の思い出を、人々はこの詩に見出すことになる。
 ベルギーから帰国するや、かれは筆を執り弁論をふるって帝政と闘い、プルードン主義的な政治評論のために投獄される。一八七〇年九月、出獄すると、かれは国民軍に参加し、ヴァレスの『クリ・デュ・プープル(人民の叫び)』紙に筆をとる。かれは、パリ第十八区(モンマルトル)の監視委員会の委員に選ばれ、十月二十一日、一月二十一日、三月十八日などの革命的行動および蜂起に参加する。
 コミューンの成立後、かれはコミューンの委員に選ばれ、居住区モンマルトルの自治に専念すると同時に、いろいろな任務を果たす。かれはヴェルサイユ軍にたいして徹底的抗戦を主張し、最後までバリケードで戦う。コミューン敗北後は、ベルシー河岸の隠れ家に二ヵ月のあいだ潜伏したのち、イギリスに逃れる。
 一八七一年の事件によって、かれは階級闘争の現実に眼をひらく。『シャンソン集』(一八八五年)の序文にかれは書く。
 「勝利者と敗者とのあいだには、もはや和解はありえなかった・・・人民は自分の貧困をはっきりと見つめ、自分の利益をはっきりと知り、偉大な社会問題の解決の時を速めさせなければならない・・・」
 追放中も、大赦ののちも、クレマンは近代的な下層貧民の感情と運命を反映した社会的なシャンソンを書こうと努める。
 一八八〇年、追放から帰国するや、かれはゲードの労働者党に加盟し、もちまえの雄弁と宣伝の才をふるって有名となる。のちにアルデンヌにおける社会主義的な労働組合活動を指導し、一九〇三年に死ぬまで、労働運動に参加した。

<新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』─詩人たち>

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