静江あての手紙

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 お手紙とクロッキイありがたう存じました。久しぶりに線の魅惑に接しました。線がそこに描かれていない触感をさへ抱きかかえていることに驚きました。あなたのクロッキイは、私にマイヨオルの或る彫刻を連想させました。今度はあなたの自画像のそれを見せて下さい。
 あなたが、豊富な色彩感とプラスティクに対する感覚をもちながら、さらにあの利根川の風景描写の中には音楽的律動を捉えていることは、驚異を私に与へます。ヴァレリイは、コロオの風景画を批評して、たしか「歌っている」と言っていました。あなたの風景画も歌っているに相違ない。あなたはそれをムウヴマンと言っているやうですが。──実を言へば、いつも私に想ひ浮んでくるのは、貴方の声なのです。それは、もう美しいソナタの小楽節、それもピアニッシモでつづくアンダンテのやうに、私の耳に残っているのです。ソプラノには堪えられない私の耳が、どんなにあなたの静かなアルトに憩ふたか、私は今も阿佐ヶ谷の夜を想ひうかべることができます。このやうな音調(タンブル)、音色(トオン)は、またあなたの画面に現れているかも知れない。それはジョン系の色彩と、ブルウ・グレエなどに対するあなたの偏愛が物語っているやうにおもはれます。しかし詩には、かういふ微妙な色彩や音感を盛ることは至難であるのみか、殆ど不可能なのです。ただコレスポンダンスによって、類推によって、近似値を創造するよりほかないのです。しかし、詩もそこまで行けばもう傑作たらざるを得ませんが、とてもいきがたいところです。
 もう寒く、フィッシングにも行けず、久しぶりに家に閉じこめられていますと、もう何から手をつけてよいか分りません。あまり永いこと原始人の幸福に浸っていたので、思索することが、迷宮の道を辿るやうに、難事に見えて、一向に進みません。昨日は一日中、プルウストの小説を読み耽って、意識過剰、分析癖、神経の綾織、などに自己を移し入れてみました。しかし、それも倦怠に色どられています。早くマラルメかヴァレリイに戻って行かねばならないのですが、時に、このやうな高度な純粋さは恐怖を与へます。それは、大きな自己集中と努力を要求するからです。しかし、美しい秋を忘却のうちに過ごしたのですから、この冬は何か獲得しなければなりません。精神は何ものかを発見するでせう。
 御精進を祈ります。

十一月十九日
                       大島博光
鈴木静江様

*昭和十九年十月に初めて静江に手紙を書いたが、それに続く手紙。
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