春がきたら
大島博光
春がきたら 耳をあててごらん
大きな けやきの樹の幹に
きこえるだろう その暗い幹のなかを
樹液のかけのぼる音が
千の若芽 若葉が
水を吸いあげる音が
だから 木の芽どきになると
井戸の水が ひくくなる
三月の空にもえる 千の若葉が
千のばけつで汲みあげるから
春がきたら 耳をあててごらん
大きな けやきの樹の幹に
この詩は、二年ほどまえに書いて「詩学」にのせた詩を改作したものです。はじめの詩稿では、
貝がら虫にとりつかれたもちの木を
手入れにきた年老いた植木屋が話してくれた
というような説明の部分がつけくわわっていたのを、こんどは取りさったうえに、二行一節にかきあらためてみた。はじめの詩稿からとりさった部分からわかるように、この詩はじっさいにひとりの植木屋がはなしてくれた話をもとにして、書いたものです。その植木屋のほうが、あるいははるかに、春の樹木がさかんに水を吸いあげるさまを、如実に話してくれたかも知れない。「ズーズーと吸いあげる音がきこえますよ。もっとも、ききなれた耳でないときこえませんがね。」と、そんなふうに、擬音(オノマトペ)をまじえて話してくれたのです。そのとき、きいていたわたしの耳には、樹木たちがほんとうに、ズーズーと音をたてて水を吸いあげている音がきこえようにさえ思えました。ちょうど春さきで、ながい冬から解放されて、すべての生命がよみがえったように活動をはじめる、そのさかんな生命の力が、そこにまざまざと見えるような気もちがしたのです。
わたしはこの話を、日記に書きとめておきました。わたしは、すこしながい春の詩を書きたいような心の動きがあったので、いつかその役に立つかも知れないとも考えて。しかし、プランはとうとう実現せずに、結局、植木屋からきいた話だけの部分の、この小さな詩ができあがることになってしまったのです。
この詩には、わかりにくいようなところは一つもないでしょう。むしろ、わかりきっていることばかりとさえいえましょう。けれども、「大きな樹の幹に耳をつけて聞くと、水を吸いあげる音がきこえる」というようなこの詩のモチーフ(動機)は、一見、きわめて平凡のように見えますが、やはり年とった、経験をつんだ植木屋でなければ、なかなかつかめないところだと思います。
きこえるだろう その暗い幹のなかを
樹液のかけのぼる音が
この二行には、暗い幹のなかでいとなまれている植物の生命の不思議さにたいする、作者自身の感動がうたいこめられています。「暗い幹のなか」ということのなかには、わたしたち人間の内部をも暗示させたい作者の気もちが、はいってもいるのです。この、耳にうったえる詩句、生命の内部でいとなまれている眼にみえない営みをうたった詩句にたいして、
だから 木の芽どきになると
井戸の水が ひくくなる
という、眼にうったえるイメージが対置されます。樹木の生命のいとなみは、井戸の水位をさげるほどにもさかんだ、ということなのですが、これはただそういう形容句であるばかりでなく、大地のなかでの樹木と地下水の関係のおもしろさも、ここでうたわれているのです。だから、そういうあらわでないところでの関係のおもしろみというものを、このなにげない詩句から、感じとってほしいというのが、作者のねがいでもあります。
三月の空にもえる 千の若葉が
千のばけつで汲みあげるから
という詩句は、井戸というイメージにつづいて、自然に出てきたものです。ここで、「千の若葉が 千のばけつで」といったのは、たんに、漠然と生命のさかんなありさまを歌うにではなしに、若葉のようなものまでも、千、万と集まって、つまり集団として水を吸いあげれば、井戸の水位さえひくくなるので、ということを強調したいためなのです。
ぜんたいとして、「春がきたら」というこの詩は、地上にやってくる春ばかりでなしに、わたしたち人間界にも訪れてくる春のことをも、それにふくませて歌っているのです。
<『中学生のために 続・現代詩鑑賞』昭和30年9月 宝文館>
大島博光
春がきたら 耳をあててごらん
大きな けやきの樹の幹に
きこえるだろう その暗い幹のなかを
樹液のかけのぼる音が
千の若芽 若葉が
水を吸いあげる音が
だから 木の芽どきになると
井戸の水が ひくくなる
三月の空にもえる 千の若葉が
千のばけつで汲みあげるから
春がきたら 耳をあててごらん
大きな けやきの樹の幹に
この詩は、二年ほどまえに書いて「詩学」にのせた詩を改作したものです。はじめの詩稿では、
貝がら虫にとりつかれたもちの木を
手入れにきた年老いた植木屋が話してくれた
というような説明の部分がつけくわわっていたのを、こんどは取りさったうえに、二行一節にかきあらためてみた。はじめの詩稿からとりさった部分からわかるように、この詩はじっさいにひとりの植木屋がはなしてくれた話をもとにして、書いたものです。その植木屋のほうが、あるいははるかに、春の樹木がさかんに水を吸いあげるさまを、如実に話してくれたかも知れない。「ズーズーと吸いあげる音がきこえますよ。もっとも、ききなれた耳でないときこえませんがね。」と、そんなふうに、擬音(オノマトペ)をまじえて話してくれたのです。そのとき、きいていたわたしの耳には、樹木たちがほんとうに、ズーズーと音をたてて水を吸いあげている音がきこえようにさえ思えました。ちょうど春さきで、ながい冬から解放されて、すべての生命がよみがえったように活動をはじめる、そのさかんな生命の力が、そこにまざまざと見えるような気もちがしたのです。
わたしはこの話を、日記に書きとめておきました。わたしは、すこしながい春の詩を書きたいような心の動きがあったので、いつかその役に立つかも知れないとも考えて。しかし、プランはとうとう実現せずに、結局、植木屋からきいた話だけの部分の、この小さな詩ができあがることになってしまったのです。
この詩には、わかりにくいようなところは一つもないでしょう。むしろ、わかりきっていることばかりとさえいえましょう。けれども、「大きな樹の幹に耳をつけて聞くと、水を吸いあげる音がきこえる」というようなこの詩のモチーフ(動機)は、一見、きわめて平凡のように見えますが、やはり年とった、経験をつんだ植木屋でなければ、なかなかつかめないところだと思います。
きこえるだろう その暗い幹のなかを
樹液のかけのぼる音が
この二行には、暗い幹のなかでいとなまれている植物の生命の不思議さにたいする、作者自身の感動がうたいこめられています。「暗い幹のなか」ということのなかには、わたしたち人間の内部をも暗示させたい作者の気もちが、はいってもいるのです。この、耳にうったえる詩句、生命の内部でいとなまれている眼にみえない営みをうたった詩句にたいして、
だから 木の芽どきになると
井戸の水が ひくくなる
という、眼にうったえるイメージが対置されます。樹木の生命のいとなみは、井戸の水位をさげるほどにもさかんだ、ということなのですが、これはただそういう形容句であるばかりでなく、大地のなかでの樹木と地下水の関係のおもしろさも、ここでうたわれているのです。だから、そういうあらわでないところでの関係のおもしろみというものを、このなにげない詩句から、感じとってほしいというのが、作者のねがいでもあります。
三月の空にもえる 千の若葉が
千のばけつで汲みあげるから
という詩句は、井戸というイメージにつづいて、自然に出てきたものです。ここで、「千の若葉が 千のばけつで」といったのは、たんに、漠然と生命のさかんなありさまを歌うにではなしに、若葉のようなものまでも、千、万と集まって、つまり集団として水を吸いあげれば、井戸の水位さえひくくなるので、ということを強調したいためなのです。
ぜんたいとして、「春がきたら」というこの詩は、地上にやってくる春ばかりでなしに、わたしたち人間界にも訪れてくる春のことをも、それにふくませて歌っているのです。
<『中学生のために 続・現代詩鑑賞』昭和30年9月 宝文館>
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