神秘をとっ払おう
天皇制と人民の姿 エリュアールの詩の読み方
大島博光
◇天皇制なるものこそ「神秘」
わたしは、宮本顕治『天皇制批判について』を読んで抜き書きをしていた。
「・・・神話を基礎として天皇が日本民族の宗主であるように断定するのは、科学的根拠にもとづかない主観的独断にすぎない。奴隷が奴隷所有者を、被征服民が征服者を、尊崇しなければならぬ宗家であるというのは、奴隷の論理にほかならない。天皇の家系が一貫していようと、いまいと、彼らが絶対権力者であるときには、人民大衆はつねに搾取され、抑圧される対象であった」(四十五ページ)
それから、本紙の「黙ってはいられない」欄(二月二日付)で、住井すゑのつぎの言葉を読んだ。
「天皇制は時代錯誤、人類の進歩、発展を阻害する制度です。つまり人間の理性(科学)を眠りこませるマヤクのようなものです・・・」
これらの言葉を読んでわたしは、この天皇制なるものこそ、エリュアールの言う「神秘」にほかならないと思いあたった。わたしはエリュアール晩年の詩「もろもろの神秘をとっ払おう」を思い出したのである。
それは巨人たちの手ではない
それは精霊たちの手でもない
おれたちの鎖を打って造ったのは
その手は目もくれず気にもかけなかった
けもののように餌食にならないものには
おれたちの多数者の手で
ばかげた死をうち砕き
もろもろの神秘をとっ払わねばならぬ
◇非合理主義と奇弁を弄し
この「もろもろの神秘」が、ここでは何より「おれたちの鎖を打って造り」だすものたちの神秘を意味し、支配権力がつくりだし利用する政治的社会的神秘を意味することはまちがいない。そして天皇制ほど権力によってつくりあげられ、でっちあげられ、人民におしつけられた神秘もまれであろう。こんにちブルジョワ・イデオローグたちはふたたび、この半封建遺制を、あらゆる非合理主義の意匠をもって、あらゆる奴隷的な奇弁を弄(ろう)して礼賛し、復権させようと躍起になっている。
さて、わたしはエリュアールの詩をこのように読んだわけだが、その根拠をエリュアールの詩の文脈のなかに見てみよう。
◇ ”詩は生活のなかにある”
同じ頃書かれた「詩は伝染しやすい」(一九五二年)のなかにはこう書かれている。
おれたちは自分を信じる権利を手にするために、
ひじょうに高く支払った
ぼろを着て泥まみれになって、血を流し勇気をふるって、
言落で、沈黙で支払った
やつらはおれたちを奴隷のようにこき使った、
自分の主人になることもできたおれたちを。
やつらはおれたちを飢えさせた、
自分のパンをつくりだしたおれたちを。
やつらはおれたちを辱かしめた
この上なく立派だったおれたちを。
やつらはおれたちを喪の悲しみに陥した、
死と闘ったおれたちを。
やつらはおれたちに毒を飲ませ、拷問にかけ
吊し首にし、銃殺し、首を切り落し、ギロチンにかけた。
というのは、辱かしめられることも、
奴隷の身にされることも、けもののようにさせられることも、
無知蒙昧にされることも、おれたちは望まなかったからだ・・・
ここに描かれている「おれたち」の姿はそのまま天皇制下の人民の姿ではないか。──治安維持法などによって、裁判抜きで虐殺されたり、苛酷な拷問を加えられた日本人民の姿ではないか。
「古い虚偽はあばかれた」と叫び、「詩は生活のなかにある」「詩は闘いのなかにある」と叫んだエリュアールが、ここでも唯物史観の視点で書いていることはまちがいない。
(おおしま はっこう 詩人)
<「赤旗」1988.2.10>
天皇制と人民の姿 エリュアールの詩の読み方
大島博光
◇天皇制なるものこそ「神秘」
わたしは、宮本顕治『天皇制批判について』を読んで抜き書きをしていた。
「・・・神話を基礎として天皇が日本民族の宗主であるように断定するのは、科学的根拠にもとづかない主観的独断にすぎない。奴隷が奴隷所有者を、被征服民が征服者を、尊崇しなければならぬ宗家であるというのは、奴隷の論理にほかならない。天皇の家系が一貫していようと、いまいと、彼らが絶対権力者であるときには、人民大衆はつねに搾取され、抑圧される対象であった」(四十五ページ)
それから、本紙の「黙ってはいられない」欄(二月二日付)で、住井すゑのつぎの言葉を読んだ。
「天皇制は時代錯誤、人類の進歩、発展を阻害する制度です。つまり人間の理性(科学)を眠りこませるマヤクのようなものです・・・」
これらの言葉を読んでわたしは、この天皇制なるものこそ、エリュアールの言う「神秘」にほかならないと思いあたった。わたしはエリュアール晩年の詩「もろもろの神秘をとっ払おう」を思い出したのである。
それは巨人たちの手ではない
それは精霊たちの手でもない
おれたちの鎖を打って造ったのは
その手は目もくれず気にもかけなかった
けもののように餌食にならないものには
おれたちの多数者の手で
ばかげた死をうち砕き
もろもろの神秘をとっ払わねばならぬ
◇非合理主義と奇弁を弄し
この「もろもろの神秘」が、ここでは何より「おれたちの鎖を打って造り」だすものたちの神秘を意味し、支配権力がつくりだし利用する政治的社会的神秘を意味することはまちがいない。そして天皇制ほど権力によってつくりあげられ、でっちあげられ、人民におしつけられた神秘もまれであろう。こんにちブルジョワ・イデオローグたちはふたたび、この半封建遺制を、あらゆる非合理主義の意匠をもって、あらゆる奴隷的な奇弁を弄(ろう)して礼賛し、復権させようと躍起になっている。
さて、わたしはエリュアールの詩をこのように読んだわけだが、その根拠をエリュアールの詩の文脈のなかに見てみよう。
◇ ”詩は生活のなかにある”
同じ頃書かれた「詩は伝染しやすい」(一九五二年)のなかにはこう書かれている。
おれたちは自分を信じる権利を手にするために、
ひじょうに高く支払った
ぼろを着て泥まみれになって、血を流し勇気をふるって、
言落で、沈黙で支払った
やつらはおれたちを奴隷のようにこき使った、
自分の主人になることもできたおれたちを。
やつらはおれたちを飢えさせた、
自分のパンをつくりだしたおれたちを。
やつらはおれたちを辱かしめた
この上なく立派だったおれたちを。
やつらはおれたちを喪の悲しみに陥した、
死と闘ったおれたちを。
やつらはおれたちに毒を飲ませ、拷問にかけ
吊し首にし、銃殺し、首を切り落し、ギロチンにかけた。
というのは、辱かしめられることも、
奴隷の身にされることも、けもののようにさせられることも、
無知蒙昧にされることも、おれたちは望まなかったからだ・・・
ここに描かれている「おれたち」の姿はそのまま天皇制下の人民の姿ではないか。──治安維持法などによって、裁判抜きで虐殺されたり、苛酷な拷問を加えられた日本人民の姿ではないか。
「古い虚偽はあばかれた」と叫び、「詩は生活のなかにある」「詩は闘いのなかにある」と叫んだエリュアールが、ここでも唯物史観の視点で書いていることはまちがいない。
(おおしま はっこう 詩人)
<「赤旗」1988.2.10>
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