1枚の写真を見て驚嘆しました。広い東京都体育館が超満員で、チリ人民支援の熱気に満ちあふれています。
「新しい歌」の担い手であるキラパジュン、インティ・イジマニ、イサベル・パラは何度も日本を訪れ、演奏活動を通じてチリ連帯を訴えた。」写真は1976年、東京体育館でのキラパジュン歓迎集会。(チリ人民連帯日本委員会発行「自由・愛・希望 1989 チリからのメッセージ」より)
博光はチリ人民連帯日本委員会(チリ連)で長く活動していました。
博光の告別式で小森香子さんが「大島博光さんに捧げる詩(うた) 」と題して詠んでおられます。
* * *
チリで軍事クーデターが起り アジェンデや
パブロ・ネルーダが殺された時 私たちは
共にチリ人民連帯委員会の常任として活動し
励ましあって 多くの集会やデモに詩を書いた
夜の会議や詩や音楽の集会に熱心に参加し
パブロ・ネルーダの人と作品を翻訳し知らせ
崇高な志と情熱を 若者たちの血にそそいだ
* * *
組織活動が苦手といわれた博光が何故チリ連に参加したのか、どんな活動をしたのか、調べてみました。「チリ人民連帯ニュース」縮刷版(全39号)などの資料をチリ連事務局に勤務されていた大島俊介さんからお借りすることができました。
1973年 9 月、軍事クーデターでアジェンデが倒されると、翌年2月にチリ人民支援連帯日本委員会が創立されました。
チリ連は広範な力を結集し、多彩な活動をしました。チリ人民連帯1000万円カンパ、アジェンデ夫人歓迎連帯集会、フォルクローレ「キラパジュン」日本公演、「インティ・イジマニ」日本公演、 ビクトル・ハラ「ギターよ、銃となって敵を撃て!」出版、マドリード チリ連帯国際会議、歌手「イサベル・パラ」日本公演、ピノチェト訪日反対の運動、ミゲル・リティン監督(「戒厳令下チリ潜入記」)連帯集会、アンヘル・パラの日本公演などなど。この運動の特徴をチリ連は解散の声明(1991年)で次のように述べています。「毎年パブロ・ネルーダ生誕記念集会を催すほか、文学、映画、演劇、美術、写真、音楽など多様な文化活動と連帯運動との結合がはかられ、運動を根付かせることができた。」
チリ人民の闘いの結果、1989年12月、大統領選挙でピノチェトが敗北し、1990年3月、民政移管が実現、17年間にわたる運動が実り、ついに民主化を迎えることが出来ました。
博光は「チリ人民連帯ニュース」最終号で「チリ支援世界会議の思い出」と題して参加したいきさつなどを書いています。
『こんどチリ連が解散することになったが、十六年間も活動をつづけてきたチリ連の活動家のみなさんに敬意をささげたい。わたしがチリ連にかかわったのは、いまは亡き間島三樹夫さんの誘いによるもので、私がネルーダの詩を訳したり伝記をかいていたからであろう。思えばネルーダの存在はチリ連の活動にとっても大きなよすがとなり媒介となり、意義づけともなった。ほとんど毎年のように、ネルーダ生誕記念集会がチリ連によって組織されて、かなりの成功を収めたように記憶している。
さて、そのなかでわたしの思い出に深いのは、一九七八年十一月にマドリードでひらかれたチリ支援世界会議に、間島さんと二人で参加したことである。間島さんは、チリ連の活動−ピノチェト来日反対のデモとか、横浜港におけるチリ貨物船入港反対とか、いろいろな場面の写真パネルをいっぱい詰めこんだ重いトランクを持って参加した。会場はマドリード・コンヴェンション・ホテルの地下大ホールだった.それらの写真パネルは、さっそく会場の廊下に飾られて世界じゅうからやってきた代議員たちの注目を浴びた。それは日本チリ連の存在と活動を印象づけたことであろう。・・・ 』
この国際会議のことを「マドリード 一九七八年十一月 ─ チリ連帯国際会議で」という詩にしています。
また「10年が過ぎた」という詩も、1983年5月、チリ人民が公然と反軍政行動に立ち上がったことに呼応して書かれたものであることがわかりました。
「新しい歌」の担い手であるキラパジュン、インティ・イジマニ、イサベル・パラは何度も日本を訪れ、演奏活動を通じてチリ連帯を訴えた。」写真は1976年、東京体育館でのキラパジュン歓迎集会。(チリ人民連帯日本委員会発行「自由・愛・希望 1989 チリからのメッセージ」より)
博光はチリ人民連帯日本委員会(チリ連)で長く活動していました。
博光の告別式で小森香子さんが「大島博光さんに捧げる詩(うた) 」と題して詠んでおられます。
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チリで軍事クーデターが起り アジェンデや
パブロ・ネルーダが殺された時 私たちは
共にチリ人民連帯委員会の常任として活動し
励ましあって 多くの集会やデモに詩を書いた
夜の会議や詩や音楽の集会に熱心に参加し
パブロ・ネルーダの人と作品を翻訳し知らせ
崇高な志と情熱を 若者たちの血にそそいだ
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組織活動が苦手といわれた博光が何故チリ連に参加したのか、どんな活動をしたのか、調べてみました。「チリ人民連帯ニュース」縮刷版(全39号)などの資料をチリ連事務局に勤務されていた大島俊介さんからお借りすることができました。
1973年 9 月、軍事クーデターでアジェンデが倒されると、翌年2月にチリ人民支援連帯日本委員会が創立されました。
チリ連は広範な力を結集し、多彩な活動をしました。チリ人民連帯1000万円カンパ、アジェンデ夫人歓迎連帯集会、フォルクローレ「キラパジュン」日本公演、「インティ・イジマニ」日本公演、 ビクトル・ハラ「ギターよ、銃となって敵を撃て!」出版、マドリード チリ連帯国際会議、歌手「イサベル・パラ」日本公演、ピノチェト訪日反対の運動、ミゲル・リティン監督(「戒厳令下チリ潜入記」)連帯集会、アンヘル・パラの日本公演などなど。この運動の特徴をチリ連は解散の声明(1991年)で次のように述べています。「毎年パブロ・ネルーダ生誕記念集会を催すほか、文学、映画、演劇、美術、写真、音楽など多様な文化活動と連帯運動との結合がはかられ、運動を根付かせることができた。」
チリ人民の闘いの結果、1989年12月、大統領選挙でピノチェトが敗北し、1990年3月、民政移管が実現、17年間にわたる運動が実り、ついに民主化を迎えることが出来ました。
博光は「チリ人民連帯ニュース」最終号で「チリ支援世界会議の思い出」と題して参加したいきさつなどを書いています。
『こんどチリ連が解散することになったが、十六年間も活動をつづけてきたチリ連の活動家のみなさんに敬意をささげたい。わたしがチリ連にかかわったのは、いまは亡き間島三樹夫さんの誘いによるもので、私がネルーダの詩を訳したり伝記をかいていたからであろう。思えばネルーダの存在はチリ連の活動にとっても大きなよすがとなり媒介となり、意義づけともなった。ほとんど毎年のように、ネルーダ生誕記念集会がチリ連によって組織されて、かなりの成功を収めたように記憶している。
さて、そのなかでわたしの思い出に深いのは、一九七八年十一月にマドリードでひらかれたチリ支援世界会議に、間島さんと二人で参加したことである。間島さんは、チリ連の活動−ピノチェト来日反対のデモとか、横浜港におけるチリ貨物船入港反対とか、いろいろな場面の写真パネルをいっぱい詰めこんだ重いトランクを持って参加した。会場はマドリード・コンヴェンション・ホテルの地下大ホールだった.それらの写真パネルは、さっそく会場の廊下に飾られて世界じゅうからやってきた代議員たちの注目を浴びた。それは日本チリ連の存在と活動を印象づけたことであろう。・・・ 』
この国際会議のことを「マドリード 一九七八年十一月 ─ チリ連帯国際会議で」という詩にしています。
また「10年が過ぎた」という詩も、1983年5月、チリ人民が公然と反軍政行動に立ち上がったことに呼応して書かれたものであることがわかりました。
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