フランス紀行 下
ファビアン広場とペール・ラシェーズ墓地
モニュマンにみちた町
パリの東北部、ビュット・ショーモンの丘に通ずるだらだら坂を、コロネル・ファビアン広場をめざしてのぼって行った。──広場の一角にあるフランス共産党本部をおとずれ、それからペール・ラシェーズの墓地へまわるためである。
ところで、パリほど歴史のモニュマン(記念物)や思い出にみちている町はない。大革命とパリ・コミューン、それに新たに三十年前の対独レジスタンスのモニュマンと思い出が加えられることになった。コロネル・ファビアン広場もそのひとつなのだ。──レジスタンスの英雄ファビアン大佐ことピエル・ジョルジュは、共産党員であり、この広場から始まるビレット通り一〇九番地に生まれた。一九四二年八月二十一日の白昼、地下鉄バルベ駅で、かれはドイツ軍将校をピストルで射殺した。それは、レジスタンスにおいて銃撃戦が開始される最初の合図となった。ロレーヌ戦線で死んだとき、かれはまだ二十六歳であった・・・。
共産党本部は、広場に面して、まだ工事中の高い板べいの向こうに建っていた。
灰色のガラス張りで、弓型の湾曲線を強調した、流線型のモダンな、七階建てのビルディングであった。受付は飾りのない、むきだしのコンクリートのだだっ広い地下の廊下にあって、夏休みのせいか、出入りする人の影もなかった。かたわらのガラスのケースのなかには、新刊の党関係の出版物が並べられており、そのなかにアラゴンの『レ・コミュニスト』も見えた。そのアラゴンもバカンスで、アビニョンの方に行っているということであった。
それから、ビレット通りをくだって、わたしはペール・ラシェーズへと歩いて行った。
大通りの中央には三列もの街路樹が並んでいて、その木かげに市がひらかれていた。ちょうど花屋もあったので、花束を三つ買った。
アラゴンの「若者たちに」
墓地の高いへいはツタにおおわれ、鉄の門はりっぱなものであった。パリ・コミューンの「血の週間」には、この門も砲撃されコミューン戦士たち──連盟兵たちは、墓のあいだで、ベルサイユ軍と白兵戦を演じながら、東南のすみの壁ぎわに追いつめられ、そこで全員、銃殺されたのであった・・・正門からはいってゆくわたしも、ちょうど連盟兵たちのように、墓石のあいだをさまよいながら、最後の壁までのぼってゆくことになる。
そこには詩人ミュッセが柳の木の下で眠っていたり、皮肉なことに、コミューンの残虐な圧殺者ティエールも豪奢な墓におさまっているのだ。
壁の近くにくると、右手に、ひときわ高く、ブロンズのやせさらばえた群像のモニュマンが、異様な迫力でせまってくる。その下の墓石には「ナチの収容所で倒れた十万の死者たちに」と刻まれている。
そのとなりの「若者たちに」ささげられたモニュマンには、つぎのような墓碑銘がきざまれていた。
「人間はどのように倒れるべきか、そして人間は、勇気と献身によって、どのように人間の名をまもりつづけたか──ねがわくば永遠にこの墓がそれを告げ知らせてくれるように。アラゴン」
レジスタンスの歴史がある
それから、あのシャトーブリアンとモン・バレリアンの殉難者にささげられた墓碑があり、アウシュビッツの死者たちをとむらう記念碑があった・・・
ここには、あのレジスタンスの殉難者たちがとむらわれ、レジスタンスの歴史が眠っているのである。
これらの墓碑につづいて、偉大な名前が並んでいた。「ジャン・リシャール・ブロック──小説家にして詩人」という墓石には、つぎのようなブロック自身のことばが刻まれていた。
「ああ、作家のインキは、それが血と涙にまみれ、まじりあってこそ、不滅の価値をもつ。一九四三年のラジオ放送より」
そしてポール・バイヤン・クーチュリエ(ユマニテ編集長、作家)の墓があり、そのとなりに「自由」の詩人エリュアールが眠っており、そのまたとなりに、フランス共産党書記長モーリス・トレーズの黒大理石の墓があった・・・。
エリュアールの墓には、バラの枝が、墓石を抱くかのように伸びていて、その前に造花のスミレが供えられていた。わたしはたずさえてきた花束を、エリュアールとトレーズの墓にささげた。さーっとしぐれのような通り雨がさわやかに降って過ぎた。そこへ、老母と中年の労働者夫婦らしい一家がやってきてキクのはちをトレーズの墓にささげた。わたしたちは「カマラード」というあいさつをかわしてきわめて自然に握手した。
「さくらんぼのうれるころ」
「連盟兵の壁」はこれらの墓の列に向かいあうようにして、道をへだてて、ややそのななめ前にあった。
この一郭の壁だけは、あたりの新しいりっぱな壁にくらべると、むかしのままらしく、いかにも古めかしく積みあげたれんがが見えたり、ところどころ、銃弾のあとらしい不気味な穴が見えるのであった。その壁に
「一八七一年五月二十一日~二十八日のコミューンの死者たちにささげる」
と刻まれた、蒼然とした銅版がかかっていた。
この壁のすぐ前、スズカケの大樹のかげには、墓石の文字もうすれて、あの「さくらんぼの熟れる頃」の詩人クレマンの墓があった。
さくらんぼのころが 忘られぬ
おれのこころにゃ あのころの
深い傷手が なおうずく
まことにパリ・コミューンは、短くてむごい春であり、さくらんぼの熟れるころだった。
いつかもう夕ぐれていた。フランス人民のずっしりと重いたたかいの歴史に心ゆすぶられながら、わたしは帰路についた。裏門のあたりで、門衛が、ピピー、ピピーと笛を吹き鳴らしていた。門限の時刻がきていたのである。(詩人) おわり
(写真)ナチ・ドイツの強制収容所で死んだ人たちの記念碑(ペール・ラシェーズ墓地)
<「赤旗──海外レポート」>
ファビアン広場とペール・ラシェーズ墓地
モニュマンにみちた町
パリの東北部、ビュット・ショーモンの丘に通ずるだらだら坂を、コロネル・ファビアン広場をめざしてのぼって行った。──広場の一角にあるフランス共産党本部をおとずれ、それからペール・ラシェーズの墓地へまわるためである。
ところで、パリほど歴史のモニュマン(記念物)や思い出にみちている町はない。大革命とパリ・コミューン、それに新たに三十年前の対独レジスタンスのモニュマンと思い出が加えられることになった。コロネル・ファビアン広場もそのひとつなのだ。──レジスタンスの英雄ファビアン大佐ことピエル・ジョルジュは、共産党員であり、この広場から始まるビレット通り一〇九番地に生まれた。一九四二年八月二十一日の白昼、地下鉄バルベ駅で、かれはドイツ軍将校をピストルで射殺した。それは、レジスタンスにおいて銃撃戦が開始される最初の合図となった。ロレーヌ戦線で死んだとき、かれはまだ二十六歳であった・・・。
共産党本部は、広場に面して、まだ工事中の高い板べいの向こうに建っていた。
灰色のガラス張りで、弓型の湾曲線を強調した、流線型のモダンな、七階建てのビルディングであった。受付は飾りのない、むきだしのコンクリートのだだっ広い地下の廊下にあって、夏休みのせいか、出入りする人の影もなかった。かたわらのガラスのケースのなかには、新刊の党関係の出版物が並べられており、そのなかにアラゴンの『レ・コミュニスト』も見えた。そのアラゴンもバカンスで、アビニョンの方に行っているということであった。
それから、ビレット通りをくだって、わたしはペール・ラシェーズへと歩いて行った。
大通りの中央には三列もの街路樹が並んでいて、その木かげに市がひらかれていた。ちょうど花屋もあったので、花束を三つ買った。
アラゴンの「若者たちに」
墓地の高いへいはツタにおおわれ、鉄の門はりっぱなものであった。パリ・コミューンの「血の週間」には、この門も砲撃されコミューン戦士たち──連盟兵たちは、墓のあいだで、ベルサイユ軍と白兵戦を演じながら、東南のすみの壁ぎわに追いつめられ、そこで全員、銃殺されたのであった・・・正門からはいってゆくわたしも、ちょうど連盟兵たちのように、墓石のあいだをさまよいながら、最後の壁までのぼってゆくことになる。
そこには詩人ミュッセが柳の木の下で眠っていたり、皮肉なことに、コミューンの残虐な圧殺者ティエールも豪奢な墓におさまっているのだ。
壁の近くにくると、右手に、ひときわ高く、ブロンズのやせさらばえた群像のモニュマンが、異様な迫力でせまってくる。その下の墓石には「ナチの収容所で倒れた十万の死者たちに」と刻まれている。
そのとなりの「若者たちに」ささげられたモニュマンには、つぎのような墓碑銘がきざまれていた。
「人間はどのように倒れるべきか、そして人間は、勇気と献身によって、どのように人間の名をまもりつづけたか──ねがわくば永遠にこの墓がそれを告げ知らせてくれるように。アラゴン」
レジスタンスの歴史がある
それから、あのシャトーブリアンとモン・バレリアンの殉難者にささげられた墓碑があり、アウシュビッツの死者たちをとむらう記念碑があった・・・
ここには、あのレジスタンスの殉難者たちがとむらわれ、レジスタンスの歴史が眠っているのである。
これらの墓碑につづいて、偉大な名前が並んでいた。「ジャン・リシャール・ブロック──小説家にして詩人」という墓石には、つぎのようなブロック自身のことばが刻まれていた。
「ああ、作家のインキは、それが血と涙にまみれ、まじりあってこそ、不滅の価値をもつ。一九四三年のラジオ放送より」
そしてポール・バイヤン・クーチュリエ(ユマニテ編集長、作家)の墓があり、そのとなりに「自由」の詩人エリュアールが眠っており、そのまたとなりに、フランス共産党書記長モーリス・トレーズの黒大理石の墓があった・・・。
エリュアールの墓には、バラの枝が、墓石を抱くかのように伸びていて、その前に造花のスミレが供えられていた。わたしはたずさえてきた花束を、エリュアールとトレーズの墓にささげた。さーっとしぐれのような通り雨がさわやかに降って過ぎた。そこへ、老母と中年の労働者夫婦らしい一家がやってきてキクのはちをトレーズの墓にささげた。わたしたちは「カマラード」というあいさつをかわしてきわめて自然に握手した。
「さくらんぼのうれるころ」
「連盟兵の壁」はこれらの墓の列に向かいあうようにして、道をへだてて、ややそのななめ前にあった。
この一郭の壁だけは、あたりの新しいりっぱな壁にくらべると、むかしのままらしく、いかにも古めかしく積みあげたれんがが見えたり、ところどころ、銃弾のあとらしい不気味な穴が見えるのであった。その壁に
「一八七一年五月二十一日~二十八日のコミューンの死者たちにささげる」
と刻まれた、蒼然とした銅版がかかっていた。
この壁のすぐ前、スズカケの大樹のかげには、墓石の文字もうすれて、あの「さくらんぼの熟れる頃」の詩人クレマンの墓があった。
さくらんぼのころが 忘られぬ
おれのこころにゃ あのころの
深い傷手が なおうずく
まことにパリ・コミューンは、短くてむごい春であり、さくらんぼの熟れるころだった。
いつかもう夕ぐれていた。フランス人民のずっしりと重いたたかいの歴史に心ゆすぶられながら、わたしは帰路についた。裏門のあたりで、門衛が、ピピー、ピピーと笛を吹き鳴らしていた。門限の時刻がきていたのである。(詩人) おわり
(写真)ナチ・ドイツの強制収容所で死んだ人たちの記念碑(ペール・ラシェーズ墓地)
<「赤旗──海外レポート」>
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