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フランス紀行 上 ──ランボーの生地 シャルルビル

ここでは、「フランス紀行 上 ──ランボーの生地 シャルルビル」 に関する記事を紹介しています。
フランス紀行 上
 ランボーの生地 シャルルビル

 もう九十歳 日本婦人
                                            
 この夏、パリ滞在中の一日、詩人アルチュール・ランボーの生地シャルルビルを訪れることにした。シャルルビル──いまはシャルルビル・メッチエールとなっている──は、パリから急行で二時間半ほどの距離で、もうベルギーとの国境にちかい。パリをはなれると、なだらかで広い小麦畑、とうむろこし畑、ぶどう畑が、これまた広大な森とこもごもにつづく。ほとんど山は見えず、ときおり低いなだらかな丘が見えるばかり。川も濃いみどり色によどんだまま、ゆっくりと流れている。気がつくと、鉄道の沿線に、広告の看板がひとつもない。広告のない沿線風景とは、すっきりとしてなんとも美しいものだ。だが、ただひとつ広告看板らしいものが立つていた。それはもうシャルルビルに近いアルデンヌの野をはしる街道ばたに、鉄道とはややはすかいに白地に黒字でHONDAと書いた標識が立っていたのだ。その近くにホンダの店舗でもあったのかも知れない。
 シャルルビルの駅前には、小さな音楽堂のある辻公園があった。およそ百年前に、ランボーがこの辻公園を『音楽堂で』という詩でこう歌っている。

 木も花も みんなこぎれいな辻公園
 けちな芝生をあしらった広場には
 毎木曜日の夕ぐれ 暑さにうだったブルジョアどもが
 愚劣さを後生大事にかかえて やってくる

──公園のまんなかでは、軍楽隊が軍帽を振りふり、『横笛のワルツ』を奏でる・・・

 いまもこの詩のとおり、木立も花もこぎれいな公園をつっきろうとすると、そばのベンチで休んでいたひとりの老婆と若い女が立ち上がって、「ロリヤン(東洋)からきたのか」とわたしにたずねた。「日本人だ」と答えると、両手のツエでからだをささえて立っていた老婆が、「わたしも日本人です」という。そういわれてみれば、小柄な顔だちに日本人らしいところもなくはないが、とがったワシ鼻など、とても日本人とは見わけがつかない。聞けば、イトオ・ヒロという名まえで、娘がルージレールとかいう提督の息子と結婚したので、いっしょにやってきて、この町に住みついてしまったのだという。もう九十歳だともいっていた。老婆は思いがけぬ日本人にめぐりあったなつかしさを、小さなからだいっぱいに表現していた。わたしもまた、ランボーの生地で帰化した日本婦人に会おうとは夢にも思わなかった・・・

 胸像あわれ「酔いどれ船」

 この公園の北の入口近く、ランボーの胸像が町の方を向いて台座のうえに置かれていた。この胸像もまたいわくつきのものであった。最初は一九〇一年に建てられたが、第一次大戦で、ブロンズの胸像は溶かされて砲弾となり、一九二七年につくられた胸像もまた第二次大戦で消えてしまい、いまの胸像は一九五四年に建てられたものである。そして一九二七年の胸像の除幕式に際しては、当時シュルレアリストであったアラゴンやエリュアールたちが胸像を建てたシャルルビルの町長たちに激烈な抗議文を書いたのであった。
 「じっさい、あなた方はランボーが何者であったかを知らない・・・かれは酔っぱらい、のたうちまわり、橋の下で眠り、しらみにたかられた。・・・ランボーとは? エルネスト・ドラエの証言によってさえ、コミュナール(パリ・コミューン派)である・・・」
 「酔いどれ船」という文字の彫りこんであるいまの胸像もまるで優等生のよう若者で、ランボーにはふさわしくない。パリで、モンパルナスの辻公園に立っていた、迫力にみちたロダンのバルザック像を見てきたばかりのわたしには、いっそうこの胸像のランボーがあわれに見えた・・・。

 川の名前も 変わった

 紅(べに)すももの街路樹の植わっている通りを歩いて行って、右に折れると、ほどなくランボーの生家があり、いまは本屋になっている。さらに百㍍もゆくと小さな広場があって、市が立っていてにぎわっていた。その広場をつっきった正面に「ランボー博物館」というあざやかな朱色の看板をかかげた三階建ての石の家があった。これは十七世紀に建てられた家で、むかしは水車小屋で、ランボーの時代にはまだ小麦粉をつくっていたのだという。そういえばなるほどこの家はムーズ川の支流のうえにまたがって建っており、その向こうの島はやはり公園になっており、そのまた向こうにムーズ川のかなり広い本流が流れていた。「黒いムーズ」とうたわれた川は、きょうはかっ色ににごっていた。博物館の左手の河岸は、いまはランボー河岸と名づけられ、三,四人のつり人が糸をたれていた。サシのようなエサで、ウグイのような小魚が、見ているまにつりあげられた。

 とてつもない 最高のかけ

 ランボー博物館といっても、例の水車屋の三階の部屋ひとつがそれで、詩人の写真や手紙やが集められていて、そのケースのひとつに、つぎのような小さな説明書きが目についた。

 「一八七一年二月二五日、ランボーは三度目のパリ行きをくわだて、首都の街々をさまよったあと、徒歩で帰った。かれはコミュ-ンに参加するため、四月-五月に四度目のパリ行きをくわだてたのだろうか?・・・」
 帰りしなに、博物館の受付の青年は、わたしのノートにつぎの言葉を記念に書いてくれた。すばらしい達筆で。
 「ランボーは、シャルルビルの生んだ、とてつもない賭(かけ)である。だが、なんと最高の賭であろう」(詩人)
(つづく)
ランボオ像
(写真)ランボー記念像前の大島博光氏(シャルルビルで)

<「赤旗──海外レポート」1974年>

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