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詩人の部屋 三鷹の家の思い出(下)

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 家族の記憶を留めた古い書物のような家の一室は、いつも温かい落ち着いた空気に満ちていました。ある日、夕刊の文化面に、パリに永く暮らした画家の随筆で、パリであろうと日本であろうと芸術や学問に関わる人の住まいには共通する匂いがあり、それらの部屋には質素な内にも知性や希望が息づいている、というような文章をみつけ、大島さんの部屋はまさにこの通りではないかと、切り抜いてお持ちすると、一読された大島さんは「善意から出てこういうものに憧れるのはいいことだよ、でも問題はその先だよ」と言われました。「知性でもって何が出来るかだよ」。大島さんにとっては「ひとがそれを読んで愛について考える詩」「ひとの生き方に影響を与える詩」「心の高みを歌う詩」を書くことこそが目的であり、その思いが前へ進もうという気概となって、この部屋に温かさや落ち着きだけではない、何ものかを与えていました。そこに思い至ったのは、大島さんの三回忌に主のいない部屋を再びお訪ねしてから後(のち)のことでした。

 三鷹駅の隣、武蔵境駅近くの、小柄な老夫婦が家の一階で営む小さな釣り具屋さんへ行った帰り道、車椅子の大島さんは「あぁやって夫婦二人で店をやっていられるうちは幸福(しあわせ)だよ、どちらかが亡くなったときに、本当の老後が始まるんだ」、そうつぶやかれていましたが、居間から見える、池のそばの夫人が植えられたという紅梅の木は、夏には池を覆うように青々と葉を茂らせ、冬にはその寂しさをはらうように、華やかな紅色の小さな花を精一杯咲かせ、部屋に途切れることなく生けられた花々とともに、原稿用紙に向かう大島さんを、そっと見守っていたのだと思います。
 肘掛椅子の背にゆったりと広い肩を寄りかからせ、じっと目をつぶり、真っ直ぐな白髪(はくはつ)の落ちかかる血色の良い額を傾け、いつも何事か考えられていた大島さんでしたが、目を開かれたとき、硝子戸越しの四季折々の梅の木の姿に、その励ましを確かに受け取られていたのでしょう。
 「わたしは寝たきり雀」と言われた晩年、寝たり起きたりの日常は、日々の体調との戦いでしたが、九十歳を過ぎてジャック・ゴーシュロン著「不寝番」の訳を完成させ、毎日一時間、二時間と机に向かわれアラゴンを始めとするフランス詩を勉強し、日本語として「その詩人と一緒になって初めから詩を作るよう」に訳し、ご自身の詩作も続けておられたのは、この三鷹の家の歴史(イストワール)の中に身をおかれていたからであったような気がします。  

  *Les Editeurs Francais Reunis ,1975
  *マリー・ローランサン 「二人の少女」       (フランス)
  *マインデルト・ホッベマ「ミッデルハルニスの並木道」(オランダ)

(尾池和子さんはヘルパーとして博光の世話をしながらフランス語の語学力を生かして秘書役もして、博光没後に「大島博光語録」を著しました。)

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