尾池和子さんが昨年書いたエッセイ「詩人の部屋 三鷹の家の思い出」を手直ししてくれました。部屋の様子が詳しく書かれていて、雰囲気がいっそうよく伝わってきます。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
詩人の部屋 三鷹の家の思い出 尾池和子
「『お姉さんは三鷹が良くて、遊びに来てもすぐ帰っちゃうんだから』、静江さんの妹さんがね、そう言っていたらしいよ」大島さんは目を細めるようにして、夫人のエピソードを振り返られました。
戦後間もなく、長野県松代から移られたという三鷹の家は、中央線三鷹駅から南へ歩いて十分ほどの距離にあり、今は住宅街となっていますが、引越をされた当時は雑木林や畑、土の香りばかりだったのでしょう。二階建ての家は、後に「静江さんの先見の明」により内装を畳から洋風に模様替えされたそうで、黄土色の一枚板の玄関ドア、濃茶色の細い飾り柱や梁には、レの字型の鑿(のみ)でつけたような彫りがあり、木材を用いた室内は、どこか武蔵野の別荘風な趣きがありました。
北側に玄関、南側の中庭には金魚が泳ぐ8の字型の小さな池があり、常緑の八つ手、初夏に蔓を伸ばし紫色の花をつける「クレマティート」、雨の季節には紫陽花、鮮やかな黄色の花が咲くのは「美女柳」、秋の萩、冬の水仙、そして「孤独な女王様」と呼ばれた薔薇の幾種類かと、咲くにまかせた灌木や草花に囲まれ、その中庭に面した、たっぷりと陽が入る八畳ほどの居間兼食事室を、大島さんは晩年の仕事部屋として使われていました。夫人の描かれた紫陽花の小ぶりな油彩画が、天井近くの壁に少し傾いてかかり、その下の灰色の布張りの肘掛椅子が大島さんの居場所でした。
読みかけの本や、手紙、お知らせ、書きつけの紙が無造作に積まれ、万年筆、インク瓶、文鎮の隣には「精神と日常との出会いだ」とカップや箸立て、調味料、お茶の缶や海苔の缶、ガラスポット、おやつのピーナッツパウダー入れが並ぶ、粗い織り目の灰色の布をかけた丸いテーブルで食事をされ、同時に原稿を書かれていました。そばの大きなやかんをのせたガスストーブは、脚が冷えて原稿が書けないことのないようにと、真夏でもオレンジ色の炎が輝いていました。
四方の壁を埋める書棚には、エリュアール、アポリネールの詩集、ブラックやレジェ、ピカソの画集、永い間フランスから取り寄せられていた文芸誌「europe(ウーロープ)」、そして『世界の最も美しい詩のひとつに数えられる』という序文(プレファース)を持つガリマール社版を始めとするアラゴンの原書の数々、大島さんが訳された詩集や評伝が、整然と、と言うよりは、入れていたらそうなったという風に並んでいました。それらの中に「des poèmes choisis pour l‘amour de toi」という愛の詩を集めたフランスの詞華集があり、大きさは十センチ四方、厚みは一センチほどでしょうか、淡い藤色がかった桜色の、紬のような光沢のある布で覆われた表紙に、紺に近い青色で表題文字を踊るように配し、同じ青色の栞紐(しおりひも)がついているという洒落た装丁の本でした。開くと右の中扉に数行、アラゴンが別れの苦しみを歌った一節が抜粋してあり、左ページには「COLLECTION PETITE SIRENE 小さな人魚コレクション」とあり、愛らしい人魚の絵が描かれていました。表紙の桜色は何かをこぼしたような染みがあり、くすんで、ページの色も褪せていましたが、それが遠い昔、この小さな詩集のほんの数行にアラゴンをみつけられたことの喜びまでを記憶しているように思えるのでした。その詩の訳は何かの紙に大きな字で書きつけられてありますが、すでにご自分が訳し出版された本のページにも、赤鉛筆で別の訳の書き込みがあったり、書きかけの原稿がはさまっていたり、アラゴンの詩への情熱と追及は尽きることが無いようにみえました。
ちょっと単語を調べたい時に使う、小卓の上に載せたクラウンの仏和辞典の白い表紙は手擦れて灰色になって、上に大きな点眼鏡が置いてあり、重いロベール、ラルースの仏々辞典、広辞苑の一群は家具やピアノの足もとに横になったり縦になったりして並べられていました。椅子のそばのその一群の影にはチョコレートの袋が隠れていて、時折その幾粒かを楽しそうに口に運ばれていました。
一角にある小型のステレオからプロコフィエフを聴かれるときは、目を閉じて「一生懸命聴くから疲れる」と言われ、稀にピアノの上に目を転じられ「楽譜を取って」と、それを見ながら、シューベルトの歌曲を細い声でかすかに口ずさまれたこともありました。
壁は葉を菱形の連続模様にした壁布で、象牙色が永年の陽射しで飴色のように変わり、木製の骨太のアームのある天井灯から差す光をしっとりと吸い込み、かすれた絵の具の跡や、野草の花図鑑も張られていました。小卓に積んである沢山のアルバムも夫人が撮られた「(山の)花の写真ばかりだよ」とおっしゃっていました。ピアノの上に飾られた、ローランサンの青と灰色と薔薇色のふたりの少女の絵葉書、ひょろひょろとした並木道の風景画の卓上カレンダー、壁にかかったヴィーナスの遠いまなざしを投げかける石膏の頭部、それらは詩人の周囲に、花や絵や音楽を心の糧にする家族がいた証しでした。何かのインタビューの折にこの部屋で撮られたという壮年期の夫妻のモノクロ写真が飾られていましたが「静江さんに生活のやつれというものが無く映っているのが、良かったよ」としばしば口にされていました。
(つづく)
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詩人の部屋 三鷹の家の思い出 尾池和子
「『お姉さんは三鷹が良くて、遊びに来てもすぐ帰っちゃうんだから』、静江さんの妹さんがね、そう言っていたらしいよ」大島さんは目を細めるようにして、夫人のエピソードを振り返られました。
戦後間もなく、長野県松代から移られたという三鷹の家は、中央線三鷹駅から南へ歩いて十分ほどの距離にあり、今は住宅街となっていますが、引越をされた当時は雑木林や畑、土の香りばかりだったのでしょう。二階建ての家は、後に「静江さんの先見の明」により内装を畳から洋風に模様替えされたそうで、黄土色の一枚板の玄関ドア、濃茶色の細い飾り柱や梁には、レの字型の鑿(のみ)でつけたような彫りがあり、木材を用いた室内は、どこか武蔵野の別荘風な趣きがありました。
北側に玄関、南側の中庭には金魚が泳ぐ8の字型の小さな池があり、常緑の八つ手、初夏に蔓を伸ばし紫色の花をつける「クレマティート」、雨の季節には紫陽花、鮮やかな黄色の花が咲くのは「美女柳」、秋の萩、冬の水仙、そして「孤独な女王様」と呼ばれた薔薇の幾種類かと、咲くにまかせた灌木や草花に囲まれ、その中庭に面した、たっぷりと陽が入る八畳ほどの居間兼食事室を、大島さんは晩年の仕事部屋として使われていました。夫人の描かれた紫陽花の小ぶりな油彩画が、天井近くの壁に少し傾いてかかり、その下の灰色の布張りの肘掛椅子が大島さんの居場所でした。
読みかけの本や、手紙、お知らせ、書きつけの紙が無造作に積まれ、万年筆、インク瓶、文鎮の隣には「精神と日常との出会いだ」とカップや箸立て、調味料、お茶の缶や海苔の缶、ガラスポット、おやつのピーナッツパウダー入れが並ぶ、粗い織り目の灰色の布をかけた丸いテーブルで食事をされ、同時に原稿を書かれていました。そばの大きなやかんをのせたガスストーブは、脚が冷えて原稿が書けないことのないようにと、真夏でもオレンジ色の炎が輝いていました。
四方の壁を埋める書棚には、エリュアール、アポリネールの詩集、ブラックやレジェ、ピカソの画集、永い間フランスから取り寄せられていた文芸誌「europe(ウーロープ)」、そして『世界の最も美しい詩のひとつに数えられる』という序文(プレファース)を持つガリマール社版を始めとするアラゴンの原書の数々、大島さんが訳された詩集や評伝が、整然と、と言うよりは、入れていたらそうなったという風に並んでいました。それらの中に「des poèmes choisis pour l‘amour de toi」という愛の詩を集めたフランスの詞華集があり、大きさは十センチ四方、厚みは一センチほどでしょうか、淡い藤色がかった桜色の、紬のような光沢のある布で覆われた表紙に、紺に近い青色で表題文字を踊るように配し、同じ青色の栞紐(しおりひも)がついているという洒落た装丁の本でした。開くと右の中扉に数行、アラゴンが別れの苦しみを歌った一節が抜粋してあり、左ページには「COLLECTION PETITE SIRENE 小さな人魚コレクション」とあり、愛らしい人魚の絵が描かれていました。表紙の桜色は何かをこぼしたような染みがあり、くすんで、ページの色も褪せていましたが、それが遠い昔、この小さな詩集のほんの数行にアラゴンをみつけられたことの喜びまでを記憶しているように思えるのでした。その詩の訳は何かの紙に大きな字で書きつけられてありますが、すでにご自分が訳し出版された本のページにも、赤鉛筆で別の訳の書き込みがあったり、書きかけの原稿がはさまっていたり、アラゴンの詩への情熱と追及は尽きることが無いようにみえました。
ちょっと単語を調べたい時に使う、小卓の上に載せたクラウンの仏和辞典の白い表紙は手擦れて灰色になって、上に大きな点眼鏡が置いてあり、重いロベール、ラルースの仏々辞典、広辞苑の一群は家具やピアノの足もとに横になったり縦になったりして並べられていました。椅子のそばのその一群の影にはチョコレートの袋が隠れていて、時折その幾粒かを楽しそうに口に運ばれていました。
一角にある小型のステレオからプロコフィエフを聴かれるときは、目を閉じて「一生懸命聴くから疲れる」と言われ、稀にピアノの上に目を転じられ「楽譜を取って」と、それを見ながら、シューベルトの歌曲を細い声でかすかに口ずさまれたこともありました。
壁は葉を菱形の連続模様にした壁布で、象牙色が永年の陽射しで飴色のように変わり、木製の骨太のアームのある天井灯から差す光をしっとりと吸い込み、かすれた絵の具の跡や、野草の花図鑑も張られていました。小卓に積んである沢山のアルバムも夫人が撮られた「(山の)花の写真ばかりだよ」とおっしゃっていました。ピアノの上に飾られた、ローランサンの青と灰色と薔薇色のふたりの少女の絵葉書、ひょろひょろとした並木道の風景画の卓上カレンダー、壁にかかったヴィーナスの遠いまなざしを投げかける石膏の頭部、それらは詩人の周囲に、花や絵や音楽を心の糧にする家族がいた証しでした。何かのインタビューの折にこの部屋で撮られたという壮年期の夫妻のモノクロ写真が飾られていましたが「静江さんに生活のやつれというものが無く映っているのが、良かったよ」としばしば口にされていました。
(つづく)
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