おお 夕ぐれのわが祖国の 大地の沼よ・・・
思い出せば 遠いむかしから 人生はあの習慣に彩られ めぐる季節季節によって いろいろの陰影(ニュアンス)を帯び、ひとびとの気分の流れも 太陽や風とともに移り変った。思い出せば 遠いむかしから 漁師の家族があり 空飛ぶ鳥を巧みに射落し 森の獣を狩る猟師たちがいた。父から子へと 木工の秘法を伝え 鉄を曲げ 柳を編むすべを知っている職人たちがいた。自分のために働くひとびともいれば ほかのひとのために身を粉にして働くひとびともいた。そして 奇妙な掛布を着せた馬にまたがって通ってゆく 領主や奥方の姿が見えた。彼らは ききとりにくい言葉で話した。それは 彼らの駿馬が速かったからというよりは 彼らのあまりにも大きな館(やかた)のなかから生れでた奇妙な考えのゆえであった。中庭の綱のうえで肌着類が乾いていた。あちらこちら 鳥に荒された畝(うね)のなかで 農夫たちが曲った背なかを伸ばしていた。教会があり そして教会へ行かないひとたちがいた。酒場では議論が湧きたち 花瓶をおいた露台(バルコン)があった。泉のほとりでは女たちが笑いさざめき 歌いながら通りすぎて行く兵士たちがいた。
思い出せば 遠い昔かち 水は澄んだり 濁ったりし 犬は吠えたて 若者たちは 誰がいちばん遠くまで石を投げるか腕くらべをし 歌は愛と春を告げていた。
わが祖国 わが祖国には多くの沼があり 陽の沈む夕暮れ 沼の面にわたしは読む……
思い出せば 遠いむかしから それは必ずしもわれわれにとって住み心地のよい世界でもなければ 好みにあった世界でもなかった。公平でもなければ 嵐の吹かない世界でもなかった。道具に傷ついた手で けんめいに思い出せば はるか遠いむかしから 道路工夫の眼には石のかけらが飛びはね 弱い物たちの悲劇と ごろつきどもの横暴があり 町々の戸口に手を差しのべる哀れなひとびとがあり 裏切られたはかない夢と 見捨てられた子供たちがあった。それは やさしい 恵みにみちた世界でもなければ 支払われるべきものが支私われ 葡萄畑が公平に分配されるような世界でもなく 息子は自分より可愛がられる兄弟を見て泣き 母親は消えうせた青春を想って泣いた。ひとかけらの土地や 一丁の壊れた武器や 盗まれた娘や はては酔いどれの雑言などをめぐつて ひとびとは たがいに争いあった。そこには 自分の生まれを恥じる私生児たちがうろつき 悪辣で抜けめのない親分たちが 賭博場の緑のテーブルを囲んで張合い 法廷で縄張り争いをくりかえした。絞首台が取り壊されても 道行くひとびとは もう振り返りもしなかった。ひとびとは どうにかこうにか冬から春へ 春から秋へと 雪や 咲く花や 暑さや 凋落を告げる紅葉など 年ごとの奇蹟をふみ越えて行った。それは いつでもよく知られている もう誰も話題にもしないような生活であった。
わが祖囲 わが祖国には多くの沼がある。夕暮れ 沼の面に 飛んでゆく鳥たちのおとす影を 私は読む……
思い出し さらに想い出してみれば 遠いむかしから すべてはなるがままに運び 哲学者たちは頭を振ってうなずき ほかのひとびとはつぶやいた 世界の中はこうしたものなんだと。船主は船をつくり 海図をひろげて 香料を運ぶ船の航路を 指でさし示した。あるものには代数学の満足があり あるものには船を漕ぐ幸福があり また他のものに眠りの救いがあった。撞球の選手たちもいれば 氷河(やま)に挑む登山気狂いがあり トランプ遊びに耽(ふけ)るひとびともいた。管楽器や絃楽器の異様な騒音に聴き入る群集もあれば、また鹿を追い立てる猟犬のようにボールを追いかけるひとびとのまわりで わめき叫ぶ群衆もいた。そうして 大地の泥のなかにもさまざまの星があり 狂気と偉大さとまずしいひとたちの日日の動揺と権力者たちの深い野望があった。
わが祖国 わが祖国には多くの沼がある。そこに祖国をすてて逃げ去るもののとり乱した身振りが映り 風の足跡がさざ披を立てる……
これが祖国だったと いったい誰が心にとめただろうか。それは多くの本のなかに書きつくされ 学校では平板で 大げさで 色褪せた詩が繰り返し教えこまれ ひとは長いあいだそれを暗誦することもできた。詩には昔の戦争が歌われ 額に包帯をした英雄たちが旗竿を握りしめながら どっと大地に倒れていった。だが これが祖国だったと いったい誰が心にとめただろうか。寝台があり ランプがあり 葡萄酒があり 小麦があった。もう ひとびとの心をうつ力を失ったこれらのものも なお 美しい童話や 恋愛詩(ロマンス)や もはや歌詞の聞かれなくなった行進曲のなかに 生き残った。この祖国からは ただその言葉だけが残った。美しい言葉はすべてに役立った。遠いむかしから家に伝わった家宝のように ひとはそれを何んにでも使う。窓が閉らないようにも使えば 子供は線を引くための定規にも用いる。それはひじょうに便利な文鎮なのだ。この国こそが われわれの祖国だったと いったい誰が心にとめてきただろうか。そしてあの嫉妬の情や隣人への憎悪や 家柄を誇る傲慢などをなくすことは たしかに一つの進歩であった。暗黒からの大きな進歩であり 虚無からの大きな進歩であった。
(続く)
<アラゴン「フランスの起床ラッパ」新日本文庫>
思い出せば 遠いむかしから 人生はあの習慣に彩られ めぐる季節季節によって いろいろの陰影(ニュアンス)を帯び、ひとびとの気分の流れも 太陽や風とともに移り変った。思い出せば 遠いむかしから 漁師の家族があり 空飛ぶ鳥を巧みに射落し 森の獣を狩る猟師たちがいた。父から子へと 木工の秘法を伝え 鉄を曲げ 柳を編むすべを知っている職人たちがいた。自分のために働くひとびともいれば ほかのひとのために身を粉にして働くひとびともいた。そして 奇妙な掛布を着せた馬にまたがって通ってゆく 領主や奥方の姿が見えた。彼らは ききとりにくい言葉で話した。それは 彼らの駿馬が速かったからというよりは 彼らのあまりにも大きな館(やかた)のなかから生れでた奇妙な考えのゆえであった。中庭の綱のうえで肌着類が乾いていた。あちらこちら 鳥に荒された畝(うね)のなかで 農夫たちが曲った背なかを伸ばしていた。教会があり そして教会へ行かないひとたちがいた。酒場では議論が湧きたち 花瓶をおいた露台(バルコン)があった。泉のほとりでは女たちが笑いさざめき 歌いながら通りすぎて行く兵士たちがいた。
思い出せば 遠い昔かち 水は澄んだり 濁ったりし 犬は吠えたて 若者たちは 誰がいちばん遠くまで石を投げるか腕くらべをし 歌は愛と春を告げていた。
わが祖国 わが祖国には多くの沼があり 陽の沈む夕暮れ 沼の面にわたしは読む……
思い出せば 遠いむかしから それは必ずしもわれわれにとって住み心地のよい世界でもなければ 好みにあった世界でもなかった。公平でもなければ 嵐の吹かない世界でもなかった。道具に傷ついた手で けんめいに思い出せば はるか遠いむかしから 道路工夫の眼には石のかけらが飛びはね 弱い物たちの悲劇と ごろつきどもの横暴があり 町々の戸口に手を差しのべる哀れなひとびとがあり 裏切られたはかない夢と 見捨てられた子供たちがあった。それは やさしい 恵みにみちた世界でもなければ 支払われるべきものが支私われ 葡萄畑が公平に分配されるような世界でもなく 息子は自分より可愛がられる兄弟を見て泣き 母親は消えうせた青春を想って泣いた。ひとかけらの土地や 一丁の壊れた武器や 盗まれた娘や はては酔いどれの雑言などをめぐつて ひとびとは たがいに争いあった。そこには 自分の生まれを恥じる私生児たちがうろつき 悪辣で抜けめのない親分たちが 賭博場の緑のテーブルを囲んで張合い 法廷で縄張り争いをくりかえした。絞首台が取り壊されても 道行くひとびとは もう振り返りもしなかった。ひとびとは どうにかこうにか冬から春へ 春から秋へと 雪や 咲く花や 暑さや 凋落を告げる紅葉など 年ごとの奇蹟をふみ越えて行った。それは いつでもよく知られている もう誰も話題にもしないような生活であった。
わが祖囲 わが祖国には多くの沼がある。夕暮れ 沼の面に 飛んでゆく鳥たちのおとす影を 私は読む……
思い出し さらに想い出してみれば 遠いむかしから すべてはなるがままに運び 哲学者たちは頭を振ってうなずき ほかのひとびとはつぶやいた 世界の中はこうしたものなんだと。船主は船をつくり 海図をひろげて 香料を運ぶ船の航路を 指でさし示した。あるものには代数学の満足があり あるものには船を漕ぐ幸福があり また他のものに眠りの救いがあった。撞球の選手たちもいれば 氷河(やま)に挑む登山気狂いがあり トランプ遊びに耽(ふけ)るひとびともいた。管楽器や絃楽器の異様な騒音に聴き入る群集もあれば、また鹿を追い立てる猟犬のようにボールを追いかけるひとびとのまわりで わめき叫ぶ群衆もいた。そうして 大地の泥のなかにもさまざまの星があり 狂気と偉大さとまずしいひとたちの日日の動揺と権力者たちの深い野望があった。
わが祖国 わが祖国には多くの沼がある。そこに祖国をすてて逃げ去るもののとり乱した身振りが映り 風の足跡がさざ披を立てる……
これが祖国だったと いったい誰が心にとめただろうか。それは多くの本のなかに書きつくされ 学校では平板で 大げさで 色褪せた詩が繰り返し教えこまれ ひとは長いあいだそれを暗誦することもできた。詩には昔の戦争が歌われ 額に包帯をした英雄たちが旗竿を握りしめながら どっと大地に倒れていった。だが これが祖国だったと いったい誰が心にとめただろうか。寝台があり ランプがあり 葡萄酒があり 小麦があった。もう ひとびとの心をうつ力を失ったこれらのものも なお 美しい童話や 恋愛詩(ロマンス)や もはや歌詞の聞かれなくなった行進曲のなかに 生き残った。この祖国からは ただその言葉だけが残った。美しい言葉はすべてに役立った。遠いむかしから家に伝わった家宝のように ひとはそれを何んにでも使う。窓が閉らないようにも使えば 子供は線を引くための定規にも用いる。それはひじょうに便利な文鎮なのだ。この国こそが われわれの祖国だったと いったい誰が心にとめてきただろうか。そしてあの嫉妬の情や隣人への憎悪や 家柄を誇る傲慢などをなくすことは たしかに一つの進歩であった。暗黒からの大きな進歩であり 虚無からの大きな進歩であった。
(続く)
<アラゴン「フランスの起床ラッパ」新日本文庫>
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