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アラゴンの『小説アンリ・マチス』について・1

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レジスタンス下の画家たち
アラゴンの『小説アンリ・マチス』について・1
                             大島博光(詩人)

 アラゴンに大冊二巻から成る『小説(ロマン)アンリ・マチス』という、マチスの画選集を兼ねた本がある。1971年の刊行で、出るとすぐわたしはそれを求めたが、ほとんど読みもせずに本棚にならべて置いた。
 こんど『美術の教室』の編集部から、「レジスタンス下の画家」という主題で書けと言われて、わたしはこのアラゴンの「マチス」を紹介することにした。じつはそれ以外の資料をわたしは持ちあわせていないからでもある。
 アラゴンが最初にマチスの複製写真を見たのは、1913年15歳の頃で、それは「マチス夫人の肖像」であった。20歳頃、陸軍軍医学校に入ったとき、彼の部屋の壁にはやはりマチスの複製が貼られていた。
 1941年、アラブンはエルザとともにニースに滞在していた。前年、彼はダンケルクにおける連合軍の大敗北で九死に一生を得て、動員解除となり、カルカッソンヌに辿りついたのち、ニースにしばらく落ちついたのだ。ナチス・ドイツ軍に銃殺処刑にされた人質たちの文献資料から、有名な『殉教者たちの証言』をつくりあげたのもニースにおいてであった。
 彼の住んでいたアパートの上のほう──ニースの上のほうのシミイに、ちょうどマチスがアトリエを構えていた。1941年12月、アラゴンは何度かためらったのち、マチスを訪問し、こうして二人の交友が始まる。ときにマチスは72歳の巨匠であり、アラゴンは44歳の気鋭であった。こうして、マチスとの「会談、対話、夢想、歴史の出来事、マチスの足跡に生まれたもの、本、経験、展覧会など……」から、『小説アンリ・マチス』が書かれることになる。それは1941年に書かれた「マチスあるいは偉大さ」から1968年にかけて、マチスについて書かれた文章の集大成であって、アラゴンはこれを小説(ロマン)と名づけた。それについて彼はこう書いている。
「わたしはこの森に伝記の体裁を与えようとも、マチスの『歴史家』になろうとも思わなかった。・・・この小説は精神的冒険の小説であり。描かれた画、デッサン、彫刻などの作品についての小説であって、一連の逸話や刺激的な事実や著者についての物語ではない・・・この小説は、マチスの思考を──相矛盾し、持続し、とつぜん思考じしんのむかしの段階をみいだすといったマチスの思考を扱った小説である・・・それによってわたしはわたしの『主人公』をあらわしたかったのである。」
 マチスの画集を兼ねているとはいえ、三百ページを超える大冊二巻のこの小説を、手短かに紹介することはむろん不可能である。ただ、この小説のありよう、マチスの思考の片鱗にでも触れようと思って、わたしはこの小説にちょっと取りくんでみたい。

「マチスあるいは偉大さ」について

 これはこの小説の冒頭の文章で、1941年11月-12月の日付をもち、セゲールスの編集によるレジスタンスの詩誌『ポェジイ42』の第一号に、B・ダ・ンべリウの署名で発表された。アラゴンはカルカッソンヌに滞在中セゲールスの訪問をうけ、そこで抵抗の詩人たちを結集し、抵抗の詩誌をだすことを話しあった。『ポェジイ42』はその計画の実現であった。アラゴンがこの文章を発表するのに匿名を用いているところにも、当時ナチスとヴィシ一政府の検閲がきびしくなっていたことがうかがわれる。その頃の状況、情勢をここでちょっとふり返ってみよう。
 1940年11月11日(第一次大戦休戦記念日)最初の公然たる反独デモンストレーションがパリの学生たちによってエトワール広場で決行された。多くの犠牲者たちの血が流されたが、それはレジスタンスの最初の火の手となる。
 1941年5月、ドイツ占領軍による銃殺と流刑に抗して、パ・ド・カレの炭鉱労働者十万は数週間にわたるストライキ闘争を行う。
 1941年10月22日、西仏シャトーブリアンにおいて27名の人質が銃殺・処刑される。  
 1941年12月15日、パリ西南郊モン・ヴァレリアンにおいて、ガブリエル・ペリをふくむ100名の人質が処刑される。
 1942年2月23日、25日、「人類博物館」の学者グループがモン・ヴァレリアンにおいて銃殺される。
 1942年5月、ジャック・ドクール、ジョルジュ・ポリッツェルたち、非合法誌『自由思想』のグループが銃殺される・・・
 ナチス占領軍がフランスを血の海に投げこんでいた。多くの人びとはなすすべも知らず、絶望の底に沈んでいたことだろう。
 こういう情勢のなかで「マチスあるいは偉大さ」は書かれた。それはつぎのように始まる。
 「吹き荒れた嵐が人家のうえを通り過ぎたとき、奇妙ながらくたの堆積(やま)を運んできた洪水が退(ひ)いていって、そこに黄色くなった古い写真や、ゆりかごや、日常の暮らしの道具類や、むかしの戦争の記念品などがごちゃまぜになっているとき、街道には、避難民たちの波が、布団と恐怖をいっしょに積んだ異様な荷車をひき、悲劇的な荷物の山をかかえて流れて行ったとき、倉庫や広場や、駅や豪華なホテル、そこらあたりの荒れはてた中庭で、空地のうえで、子供たちが地べたに坐って、壊れた玩具をかぞえている。
  なぜいまここでこのイメージが絶望の強さでわたしに迫ってくるのか、わたしにはわからない。だが、われわれはその子供たちだ。しかも、われわれが胸締めつけられる思いで点検している神聖な残骸は、人形や鉛の兵隊たちではない。19か月以来、ほとんどいたるところで人びとは、いつも心にかかっている祖国の財産目録のなかに、おのれの存在理由を探しているだ。・・・そしてある人びとが」われわれの弱さをあげつらって、そこに騒々しい苦(にが)い慰めを見出しているとき、他の人びとは──わたしもそのひとりだが──しばしば黙ったまま、われわれの富、変質しないわれわれの財産、われわれの比類ない誇りの根拠をかぞえているのだ。それはわれわれの肺を洗い清めてくれる新鮮な空気であり、われわれの俸大さについての感情をわれわれに返してくれるのである。
 われわれのこの財産評価にたいして、過去のあやまちや欠点や敗北を積みかさねてみても始まらないだろう。そして恐らくフランス絵画を前にしてわれわれが抱くこの偉大さの感情を、われわれから奪いとることはだれにもできないだろう。そして恐らくフランス絵画の到達点であり頂点であるあの作品ほどに、この偉大さの感情をわれわれに喚び起こすものはない。わたしはアンリ・マチスの作品について語りたいのだ。・・・」
 この冒頭の部分は、映画「禁じられた遊び」の、あの避難民のみじめな行列のシーン──そこへ容赦なくドイツ空軍横の爆撃と掃射が襲いかかる──を思い出させずにはおかない。そしてここで語られようとしていることは、あの哀れなみなし子の禁じられた遊びではなくて、禁じられた精神の偉大さ、ふみにじられたフランスの偉大さなのである。ここにわたしはアラゴンの戦略戦術をよみとることができる。彼は占領下における抵抗詩の方法として、敵の検閲をくらます詩法、「密輸(コントル・バンド)」を発明していた。それはひろく知られているフランスの歴史や中世騎士道物語の精神や逸話に託して、祖国愛の精神を吹きこみ、抵抗を呼びかけるというものである。そしてここではマチスが語られることになる。だからと言ってマチスがフランスの偉大さのために軍に引きあいに出されたり、利用されたりするに過ぎない、と見てはならないし、見ることもできない。アラゴンの巨匠マチスたいする敬愛がまずそれをゆるさないだろう。もしもそんな戦術だけでマチスを論ずるなら、どうして大冊二巻もの量で語る必要があろう。詩人のマチスへの敬愛の声をきこう。
「・・・かつてルイ十四世の世紀があったが、いまやマチスの半世紀がある。それはメトロ様式の時代、突如として印象主義を追い越し、印象主義に廃棄を通告することになる、あの(「野獣派」)絵画の褐色(フォヴ)の輝きから始まって、描線(トレ)が歌となり、線(リーヌ)が踊りとなるようなあのデッサンへといたる。そこに、わが歴史のもっとも暗黒な時代の、フランス的感性の純粋さと本質が要約されている。それは飛行機の数や戦車の速度には依存しない、あの精神の勝利である。わたしは言おう、それこそはわれわれのもの、われわれだけのものだと。その高貴さを理解するのはわれわれの義務であると・・・」
 ここに、高い叫びにも似たアラゴンの呼びかけをきくことができよう。

マチスとタヒチ

 この文章の後半は、マチスのタヒチについての覚え書きとタヒチの風景とタヒチの女を描いたデッサンについて論じている。それらのデッサンと覚え書きは詩誌『ポェジイ42』のために、つまりアラゴンに与えられたものである。1930年頃マチスはタヒチを訪れた。10年後、彼はその思い出について書いたり描いたりしたのだ。アラゴンのテクストにもどろう。
「(マチスは書く)<反(そ)り返った髪のような優雅な椰子の木々が、絶えまなく吹く貿易風にざわめき、風はまた暗礁のうえの自由な海水のつぶやきを誘う。それにひきかえ、水路の出口の、珊瑚礁の中央にある礁湖の水は風もなく穏やかである・・・>
 マチスがわたしにくれた、この削ったり、書き加えたりしてある原稿を、わたしは見つめる。彼は、自分がとり憑かれていたタヒチの風変わりな風景が彼にとって何を意味するかを、わたしに説明しようとしたのだ・・・
 シミイの高みの、眠れる森の美女の宮殿で、緑の木々と歌う小鳥たちにかこまれて、彼、偉大な画家はよく眠れない。10年もむかしに訪れたタヒチの島々の物語が、夜、彼につきまとって離れなかった。そこで彼はまた起きあがって、デッサンのほかに、とり憑いた想念(イデエ)を図式化するほかに文章を書いたのだ。
 <アパタキ島の礁湖─アパタキ島は左隣りのアパタカ島から水路によってひき離されており、水路のうえには美しい軽やかな白雲が浮かんでいて、白雲は原地人にとって一週間のうちに舟がくるだろうという知らせなのである。反(そ)り返った髪の毛のような優雅な木々は・・・>等々。
 彼はこの文章を精確にするために、わたしが先にコッピーした別の原稿紙に書き直したのだ。・・・そこにわたしはさらに読みとる。
<礁湖の水は、とても浅い底の色に染まって硬玉のような灰緑色で、白い珊瑚とくパステル〉のような柔らかい色をしたその変種のまわりを、琺瑯にも似た材質(マチエール)の、褐色の縞模様や青や黄の小さい魚の群が泳いでいる。黒褐色をしたナマコのかたまりは、ぐったりとしてほとんど動かない・・・>
 <・・・休日の画家は、この礁湖に潜(もぐ)って、頭を水のなかに入れたり、勢いよく出したりして、その相次ぐ印象によって、水の下と水の上との、風景の光の特徴を分析することができる。さらに前者の淡い金色と後者の淡緑色との関係を追求することができる・・・>テクストのこの部分の叔述は完結されていないので、わたしは最初の草稿を参照せざるをえない。
<休日の画家は、この礁湖に潜って、光の特徴と同時に植物の特徴を分析することができるし、二つの場所の特珠な植物をとおして交互に追求された、水の下と水の上の光の性質によって、相次ぐ印象によって、画家は自分の感じやすい網膜を楽しませることができる・・・>
 そして原稿の余白に、卓抜な感覚で書かれた補足のノートがある。それは画家のこの夢想の部分にひそかに結びついているように思われる。わたしはそれを読む。
<・・・胸を締めつけるような大きな孤独感が(ツーレーヌ〔訳注=こんにちのツールを中心としたロワール地方の古名。古城と風光明媚によって知られる〕の光のように強烈で味わい深いその光にもかかわらず)この全体を支配する。この全体はまたゴチックのカテドラル(アミアン)の大広間にただよう光にも比すべきもので、礁湖のとどろきは、カテドラルにひびくオルガンのそれということにもなろう>
 まさにここのところだ。不意に浮かんだ考え記述を<脚色し>ないように行われた、複雑な書き足しや削除のなかに、わたしはこの不思議なデッサンにかかわるもの、マチスを10年うしろに連れもどすものを探しもとめた。とつぜんマチスはふたたびタヒチを見る。タヒチは彼の作品のあちこちに明らかな理由もなしに現れる。マラルメの『窓』の挿画に描いたデッサンにおけるように。そこでは硝子窓が遠い島の風景のうえに不意にひらいているのだ。もしもわたしが、このテクストの頭の部分──礁湖そのものとも舟の到来を告げるあの雲ともかかわりのないこの一節をここに書きこまなかったら、わたしはこのテクストを裏切り、そのすべてを貧しくすることになろう。『・・・タヒチの娘は繻子(サテン)の肌をし、髪はしなやかで巻毛で、赤銅色をした顔は島の暗い緑とみごとに調和する。深く密生した爽竹桃の林や花をつけたタコの木などの豊満な香りは、パン屋のかまどから取りだしたばかりのパンの香りを思い出させ、オランダ水仙や、チアレというタヒチの花のほとんど息もつまるような香りは、旅人に無意識の怠惰と快楽の島の近いこと告げる。それはひとに記憶を失わせ、未来への不安を追い払う・・・』
 ・・・
 読者は眉をひそめる。『そこには何か変わったものがあるのか、と読者はつぶやく。画家はかずかずのデッサンを編集するために一つの主題を探し、ばらばらに引き離すために一つの口実を探す。そこには変わったものは何もない。きみは黄金について語る。読者よ。きみは太陽のようだ。そこには何も変わったものはない。なんにも。変わったものは。われわれはあらゆるもののなかに卑俗さを見いだして喜ぶ。けれども・・・けれども瞬間の思考を永遠なるもののなかに彫みこむ、あるいは反対に、永遠なるものを捉えて、これを過ぎゆく瞬間のなかに書きこむということ、この語るにはむつかしいその手続きはどんなものであろうか。画家マチスのアトリエの壁を、くりひろげられた完璧な一つの思考のように飾っている、あの女たち、あの形象(フィギュール)たち、あの植物たちは、フェドルやベレニスのように瞬間から解き放たれているように見える。・・・
 さて、一連の年号のうちの一つの年号にすぎない今年(ことし)の末、偉大な画家マチス──彼のなかにわが国の偉大さが要約されている──が、希望にせよ絶望にせよ、幸福なタヒチの島々の思い出にとり愚かれたということには変わったことは何もない。しかもその彼の流儀(やりかた)には亡命への好みもなければ(タヒチの光は彼にとってツーレーヌの光であり、タヒチの孤独感はアミアンのカテドラルの独特な大広間のそれである)またランボオからゴーギャンヘと70年来、われわれのはかない夢想を支配してきた逃亡の精神もない。マチスは想像もつかないフランスの外で、しかもあのフランス的な世界解放を追求する。それは奪うことのできぬ権利である。そこには何も変わったことはない。結局、そこにはきわめて自然なもの以外なにもない。われわれはまさに永遠なるもののなかにいるのだ。
 ・・・マチスがわれわれに教えること、不眠のテクストの余白で、あの削除のないデッサンが語っていること、それこそ純粋な線による表現の無限の複雑さ、画家の手をみちびくあの偶然とも見えるものの無限の複雑さである。・・・デッサンは文体(エクリチュール)である。甘美さとフランス的偉大さとをもって、このことをわれわれに教えてくれるのは、われわれの誇り、シミイの巨匠アンリ・マチスなのである。」
 1941年の暮れに、マチスが10年むかしのタヒチ訪問を思い出して書いた覚え書きがここに引用されている。幸福な島の風景は、それこそ画のように美しく描かれている。しかしひとを感動させてやまないのはつぎのくだりであろう。
 「・・・休日の画家はこの礁湖にもぐって、頭を水のなかに入れたり、勢いよく出したりして、その相つぐ印象によって、水の下と水の上の、風景の光の特徴を分析することができる・・・」
 ここには光をたのしむ画家の網膜の世界がある。アラゴンはそこに、「フランス的な世界解釈」の追求を読みとり、それはだれも奪うことのできない権利であると強調する。
 さらにアラゴンをもっとも感動させている点は、マチスがタヒチにとり憑かれながら、ゴーギャンのように、そこに逃避しようとする態度をとらずに、タヒチの光に祖国ツ-レーヌの光を見、そこでの孤独感の大きさをアミアンのカテドラルの大広間のそれとして感じとっている点である。たくさんの芸術家が戦火を避けて国外に亡命したり逃避したりしていた時である。じっさい、大戦中、マチスはピカソとともについにどこにも行かずにフランスにとどまったのである。
 そのマチスのフランス的偉大さを、アラゴンは彼のデッサンに、その純粋な線に見る。
 「デッサンは文体(エクリチュール)である」という命題は、デッサンはひとそのものである、ということでもあろう。

<『美術の教室』35号 1987.7>

マチス ロマン


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