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小熊忠二詩集『ペンギンの足』を読む

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小熊忠二詩集『ペンギンの足』を読む
                       大島博光

 小熊忠二は数冊の詩集をもつ老練の詩人である。そんなことを言えば、彼は顔にはにかみの色を浮べるだろう。そんなことには無頓着に、ひかえめに、彼はおのれの歌を──あるいはおのれの苦しみをうたってきた男である。そしていま最近の詩をあつめた『ペンギンの足』がわたしの眼の前にある。
 わたしはまず「老化衝動症」に感銘し、これを愛する。わたしはまず冒頭の四行に捉えられる。

 いつか知らず
 としとるごとに
 耐え性なくなり
 なにごとも あとの祭りだ

 この四行の詩句は、さっと描かれた線描のように自然で、画面に定着したみごとなデッサンを想わせる。そして主題は、動きに溢れた力強い線で一気に書かれる。

 溝に 餌をあさり
 セキレイがとんでいた
 猫が くわえた
 あたり感嘆の声ひびくのに
 しゅんかん
 奇声をあげておれは猫をおいかけた
 よその家の庭をぬけ
 ブロックを越え 菊をふみ
 走った・・・


 セキレイをくわえた猫に怒りの声をあげて猫を追いかけ、「よその家の庭をぬけ/ブロックを越え 菊をふみ/走った・・・」自分を、詩人はみずから老化衝動症と名づけた。しかし、きわめて人間的なこの行動には老化もなければ病状もない。きわめて健全で積極的で行動的である。──ここでわたしはピカソの一枚の絵を思い浮べる。それは牙をむきだしてニワトリをくわっとくわえた猫を描いた絵図である。この画面によってピカソは、その当時暴虐をふるっていたスペインのファシストたちへの怒りを表現したのだった。ピカソの絵をもち出すまでもなく、セキレイをくわえた猫に怒りの声をあげて走った詩人は、猫の暴力にたいする怒りや、その犠牲となった弱者への同情という、自然な人間的感情に駆られたのであって、それが力感に溢れ、ダイナミズムにみちたこの詩へと結晶したのだ。そしてこのような詩が書かれたのは、この詩人のなかに正義の人がいたからである。正義の人などと言うと、こんにち人びとは笑うかも知れない。ましてや詩人においては──しかし、この詩がさし示しているのはまさに、正義の人が存在しているということであり、そのことが色褪せることなく光っているとわたしは思う。ひとは詩人である前に人間であって、血をもった人間であることによって、詩にも血が通うのではなかろうか。
 さて、「字」という作品の冒頭にも、わたしはみごとな線描に成る四行の詩句をみいだす。

 夜っぴいて
 ねむれないのは つらいものだ
 ねむるのが こわいのだ
 朝 死んでいるのが


 この四行は、先に引用した「老化衝動症」の冒頭の四行と同様に、それ自身でひとつの詩世界をつくり出しているように思われる。これらの四行の詩句は、数十年にわたる詩作──エクリチュウル(書き方)の追求と作業ののちに獲得された、いわば枯淡自在な線描なのである。
 これは、「朝死んでいるのが」こわくて眠れない人間の詩である。眠れないままに、この不眠のひとは、文字を読み、読もうとしている。そんな不眠の夜の「つらさ」は、「字がアブストラクにうごきまわ」り、「細菌のようにくねくねして/さわいで」いるというイメージに描かれる。

 この「眠る恐怖」のつらさはさらに「また はじまった」においてエスカレートし、いっそう病的な症状となって現われ、ついに救急車の世話になるということになる。
 「またはじまった。吐き気が立ったり座ったり寝たりさせる。気が遠のくようだ・・・

 はじめ、救急車がきた。・・・ピーポー・ピーポーの音を聞きながら、はずかしいと思った。・・・

 また、はじまった。昼ちかくまで耐えてもうろうのなかで女房を呼んだ。病院へ行くぞ。・・・救急車はやめてくれ。なぜか街という街角の信号機が赤に変ってストップした。死ぬことなんてたかだかと、死を侮辱していた意識の死の厳粛さを消すために、しきりと田んぼを考えようとした。まわりの美田たちはガラクタで埋められ、ねずみが走った。背後の遠い山の亀裂からやってきたタカは、舞いおりる寸前、カラスどもの襲撃によたよたした。カラスめ。ガラクタ田んぼをおおいつくした雪、いちめんの雪をけちらし。ああ、もう夏だ。
 これはまさに小熊忠二の地獄の季節の一節である──ということができる。もうろうの意識のなかで捉えられた、流れる意識の流露、死の意識との格闘、幻想のように喚起された雪の風景──だが現実は「ああ、もう夏だ」という舞台の転換・・・この散文詩はこの詩人の傑作である──わたしはそう言うことができる。
 これらの意識内部の苦しみのつぶやき、坤めき、声にならない叫びは、おのずから詩となるほかはなかった。この詩人が意識の底から吐きだしたもの、そこに描いたファンタジーは詩となるほかはなかった。ここでは、この詩人においては、詩はどうしようもなく必然のものであり、詩は彼にとって彼のアイディンティティを証すものとなった。それこそ詩と詩人の証明ということにもなろう。
 こうして小熊忠二は詩人となるほかはなかったのである。詩集『ペンギンの足』はそのことを物語っている。
            一九九〇年五月

<詩誌「稜線」>

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眠れない人間 で 検索中です
眠れない男 という人が テレパシーで 語ってきます。
眠るという行為は 当たり前の事だという人達。
眠れない人は 眠れないのが 当たり前の生活。
眠るということは 脳の休養?
眠れない人の 仮眠というか 体 目 脳の 休養~
睡眠研究会(名前検討中
2013/05/29(水) 11:41 | URL | 村石太ザード&アンディ・フグ&リバー #0idHQtcQ[ 編集]
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