マチスとアラゴン

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マチスとアラゴン
                 大島博光

 いま竹橋の国立近代美術館でマチス展がひらかれていて、わたしも見てきた。あの「ダンス」「オダリスク」「ばら色の女」などの傑作から、タピスリー、ヴァンスの礼拝堂の装飾にいたるまでがならんでいて、その色彩とかたちの豊穣(ほうじょう)さ、表現の自由自在さ、多様さに圧倒された・・・。

たびたび訪ね親交結ぶ

 さてマチスについては、アラゴンが大冊二巻の「アンリ・マチス ロマン」をあらわしている。ここには、一九四一年から一九七〇年にいたる間、アラゴンが折にふれて書いたマチス論、思い出、詩、注釈などが収められている。 第二次大戦中、フランスがナチス・ドイツ軍に占領され、レジスタンスが始まったころ、一九四一年から一九四二年にかけてアラゴンはニースに滞在していた。あのシャトブリヤンの人質大量処刑を告発した「殉難者の証言」はここで書かれた。 ちょうどマチスがニース近郊のシミエにいた。若い頃からこの画家を敬愛していたアラゴンは、マチスをたびたび訪ねて親交を結ぶようになる。画家と詩人とは時に四時間も話しこんだという。ときにマチス七十一歳、アラゴン四十三歳。
 こうしてアラゴンは一九四一年に「マチスあるいは偉大さ」を書く。

フランス人民を励ます

 「・・・(マチスの)デッサンにおいて、筆致(トレ)は歌であり、線はダンスである。そこにわがフランスの歴史上もっとも暗黒な時代におけるフランス的感性の純粋さと本質とが要約されており、飛行機の数や戦車の速度に依存しない、あの精神の勝利が要約されている」
 思えば、これはすでにレジスタンスの文章ではなかろうか。敗北と屈辱の中に呻(うめ)くフランスにあって、フランス的精神の勝利を喚(よ)び起こすことほどに、フランス人民をはげますものはなかったであろう。 戦後、一九五〇年には、「マチスの庭園で」という文章にかれは書いている。
 「アンリ・マチスの作品は、フランス式庭園に似ている。庭師たち(画家たち)が、庭園の印象主義と手を切って、あのデザインされた花壇を庭園に導入していた頃、かれらの頭のなかに何が起こっていたかは、ほとんど想像できないが、その花壇においては、茂みの色彩と刈りこまれた木の葉の色彩とは人間に従順であり、人間の夢想の世界にぴったりと合っていて、自然から出発しながら自然そのものの即興を放棄しているのである・・・」

「大きな構成」を学ぶ

 これらの言葉は、たとえば「装飾的背景のなかの人物」などについて見れば、その通りに納得されるであろう。
 一九五四年十一月三日マチスが死ぬと、アラゴンはさっそく「マチスの微笑み」(一九五四年十一月五日付「ユマニテ」) を書いている。
 「・・・フランスの一世紀にわたって、時代の不幸たる嵐(あらし)と戦争をとおして、ひとりの男が六十年のあいだ、前例のない色彩のオプティミスムをもって、生への強烈な視覚、調和のとれた視覚をわれわれに与えることになる。その男はもういない。しかし、ひとびとの運命にたいするあの大きな信顆、あの霧をのり越える力、あの幸福の確認が、彼のあとに残っている。
 ランスの(カテドラルの)石のなかに、中世がその後笑みの神秘と美を残したようにこの未来への茫大な遺産、マチスはわれわれの時代の勝利した微笑みとして後世にとどまるであろう」
 アラゴンがマチスから学んだもののひとつに、芸術形式における「大きな構成」がある。それは表現技法をマスターしてはじめて可能となる。マチスも晩年になってそのような「大きな構成」を実現する自田を獲得したのであった・・・。
 「マチスは語る」という詩のなかにアラゴンは書く。

  わたしは眼で希望を描く
  アンリ・マチスにひとが期待するものを未来へつたえるために

  (おおしまひろみつ 詩人)

<「赤旗」1981.4.8>

マチス ロマン

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