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詩人アストゥリアスについて

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解説 詩人アストゥリアスについて

 ミゲール・アンヘル・アストゥリアスは、一八九九年一〇月一九日、グァテマラ市北一三番街一三番地に生まれた。父親エルネストは弁護士で、母親のマリア・ロサレスは女教師であった。アストゥリアス家は一七七〇年頃、スペインからグァテマラに移ってきた。ミゲール・アンヘルの血のなかには、母親をとおしてインディオの血が、父親のスペインの血といりまじっているといわれる。じつさい、大柄で、どっしりとして、かぎ鼻をした顔には、マヤの石像のマスクを想わせるものがある。
 かれは子供のころ、母親の物語ってくれるインディオの不思議な伝説にしたしんで育った。その魔術のような伝説の世界は、のちにかれの文学のなかにふしぎな影響をあたえ、「魔術的レアリズム」へと発展する。
一九九八年来、グァテマラの運命をその手に握った独裁者マヌユエル・エストラーダ・カブレラは、一八九九年にはユナイテッド・フルーツ会社に、グァテマラの門戸をひろくあけはなち、グァテマラを「外国独占体のなかにある国家」にかえてしまった。そうしてこの独裁者は、反抗的な自由主義者たちまで迫害するにいたった。アストゥリアスの一家も、一九〇三年この迫害をのがれて、首都から田舎町のサラマに移る。
 一九一六年、アストゥリアスは大学にはいり、はじめ医学部に籍をおいた。しかし、解剖台にならべられた死体を見たとき、かれは自分が医師にむかないことを知り、つぎの年に法学部にうつる。
 当時、独裁打倒の運動はさかんになった。自由を要求する人民を、聖職者までがはげました。一九一九年三月、「グァテマラ人民へおくる声明」のなかで、ファセリの司教はいう。「諸君は一国の人民であって、羊の群ではない。」
 一九二〇年一月、統一党が創立され、イデオロギーと信教のちがいを越えて、民主主義の隊列を大きくするよう、すべての愛国者たちによびかけた。大学では、「エル・エストゥディアンテ」誌が警察の圧力にも屈しない闘争を展開した。アストゥリアスはこの機関誌の創立者のひとりであり、主要な執筆者でもあった。また、全国大学生連盟が組織されたが、かれはその指導者のひとりとなった。
 アストゥリアスは、そのあいだも、政治運動を放棄することなく、文学の勉強をつづけ、一九一八年には、最初の詩を「ラ・オピニオン」紙および「ラ・カンパーニヤ」紙に発表し、「クルトゥラ」 誌に協力する。独裁打倒に積極的に参加したゆえに「一九二〇年代の世代」と呼ばれる人たちが、この「クルトゥラ」誌に、スペイン古典詩─たとえばガルシラソー・デ・ラ・べガやフレイ・ルイス・デ・レオン風な詩をかいていたし、そこにはまた前衛的なエッセイや詩も紹介された。とくにペルーの詩人サントス・チョカノがこの世代につよい影響をあたえた。かれはメキシコ革命にも参加した詩人で、「原住民の野性的なアメリカ」をうたい、詩の分野に、インディオの問題を提起した。─インディオは、あらゆる権利を奪いとられた貧乏人で、奪いとられた土地でへとへとになるまで働かされていた。インディオは数百年来うばれてきたその権利を回復する日を待っている。そのとき、偉大な作家・詩人たちが、イソディオの偉大な過去とその伝統の美しさを表現するであろう。アストゥリアスもそれらの作家・詩人のひとりに成長することになる。
 一九二一年、アストゥリアスは大学の卒業論文として「インディオの社会問題」にとりくむ。大学で、社会学の講座でこの問題を研究すると同時に、かれはヨーロッパや北アメリカの社会学の著作を読む。この年、メキシコでひらかれた第一回学生国際会議にグァテマラ代表として出席し、そこでメキシコの学生詩人カルロス・ペリセル、ジェイム・トレス・ボデットなどと識りあう。かれはまた、十年来、革命をすすめているメキシコの新しい現実にふれる。グァテマラに帰ると、マヤ地方の町や田舎をおとずれて、土着民の資料や証言をあつめる。それは、かれの卒業論文のなかにとりいれられ、研究の対象となる。
 一九二四年七月一二日、アストゥリアスはパリに着く。パリ祭の賑わいと歓喜にすっかり魅せられる。モンパルナスのカフェー、 クーポールやロトンドには、ラテン・アメリカの作家や芸術家たちがよく集っていたし、大学ではマヤが研究対象となっていた。かれはソルボンヌ広場の小さなホテルに身を落ちつけて、それから三年にわたる研究と文学勉強と詩作のパリ生活をはじめる。かれはソルボンヌで、古代アメリカ文明およびマヤ文明に関するキャピタン博士の講義に出席する。また、ジォルジュ・レイノーの指導する、古代アメリカ宗教のゼミナールに参加する。レイノーは、キチェ族の 神話、『古代グァテマラの神神と英雄と人間たち』を仕上げていた。 それは、キチェ族の聖書といわれる「ポポル・ブフ」の新しい仏訳でもあった。そしてレイノーの提案で、アストゥリアスと同学のメ キシコ人J・M・ウルタード・メンドーサは、この書をスペイン語にほんやくすることになった。このスペイン訳は一九二七年にパリで出版され、一九三〇年には、アストゥリアスの最初の著書『グァテマラの伝説』がマドリードで出版される。
 夜、アストゥリアスはモンパルナスのカフェーで、多くの詩人や作家・芸術家たちに会った。ポール・フォールやレオン・ポール・ファルグなどの詩人、アンリ・バルビュスやロマン・ローランなどの小説家たち。とりわけシュルレアリストたち─アンドレ・ブルトン、アラゴン、ポール・エリュアール、トリスタン・ツアラ、パンジャマン・ペレ、そしてロベール・デスノスなど。また、パリ滞在下の外国作家、イリヤ・エレンブルグ、ガートルード・スタイン、トーマス・マン、ルイジ・ピランデルロ、ミーゲル・デ・ウナミムノなど。
 のちにアストゥリアスは、シュルレアリズムについて、こう述懐している。
 「われわれはスペイン系アメリカ人として、生れからして偶像破壊者である。わがアメリカ大陸の風土の荒荒しさは、破壊の魅力をわれわれに吹きこんだ。そしてシュルレアリズムは、すべてを投げすてて、新しいものを獲得しようとするわれわれの若若しい渇きをいやしてくれた。けれども、ひとびとがわたしの或る作品に指摘するシュルレアリズムは、フランスの影響であるよりは遙かに、マヤ・キチェ族の神話伝説に鼓舞された精神をあらわしている。たとえば、『ポポル・ブフ』や『ザイールの年代記』のなかには、われわれの知っているすべてに先だつ時代の、植物的で明敏なシュルレアリズムとも呼びうるものが見いだされる。」
 「わたしの思うに、フランスのシュルレアリズムはきわめて知的である。一方、わたしの本のなかでは、シュルレアリズムはまったく魔術的な、まったくちがった性格をもっている。原始素朴な、小児的な精神で、現実と想像とを、現実と夢とを、ないまぜにするのが、インディオのやり方なのだ。」
 グァテマラは超現実主義的な国である。すべてが─人間も風景も事物も、すべてがそこでは、対照にみちた並存的なイメージと狂気の、超現実主義的な寡囲気のなかにただよっている。」
じっさい、この頃かかれたアストゥリアスの詩は、ほとんど超現実主義的なものではない。むしろそこにはほかのいろんな影響がみられる。一九二五年のソネットには、ヴァレリーの純粋詩の影響がみられるし、つぎの時期の詩には、ヴェルレーヌ風の象徴主義や、フランシス・ジャムの内面主義の影響がみられる。
 アストゥリアスは、自分が抱いている内密の世界を表現するのに、詩がそれに適当な表現形式でないことに気がついて、詩から散文にうつる。こうして生れたのが、みごとな散文詩『グァテマラの伝説』であった。
 これらの物語は、インディオの古い民話から発想をえているものではあるが、そのままの描写ではない。それは作者のゆたかな想像によって、民話のはじめの内容よりはるかに魅惑あるものとなっている。「金の肌」という年もわからぬ老人が、ドン・チェペとニィーナ・ティーナに出会う。二人の信頼をえようとかれは、子供の頃さまよい歩いた森の話をする。こうして物語ははじまるが、読者はたちまち、魔法のような世界にひきこまれる。ここでは、神人同形論(アントロポモルフィズム)は独特なかたちをとっている。動物たちは話をしないが、反対に、生命のない物たちが活動する。アストゥリアスの魔法の指輪のままに、山や木や草が擬人化され、石や木の葉や音が、生命をあたえられて、異常な世界をつくり出す。
 「わたしは森のなかにはいって、酋長たちの行列のような木木の下を歩いた・・・気がつくと、たちまち、森の木木は人間に似ていた。石が眼をもっていて、あたりを見まわし、木の葉が言葉をはなし、流れが笑った。太陽、月、星、空、そして大地が、みんな自分の意志で動いていた・・・松の木は、ロマンティックな女の睫毛でできていた、・・・歩くたびに、こだまのすばやい兎が、はねて、走り、 飛んだ・・・神さまは、気まぐれな歯医者のように、風の手で、木木を根こそぎ抜きとった・・・」
 アストゥリアスは、このマヤ・キチェ族の神話伝説にもとづく手法を、小説のなかにもとりいれる。たとえば、小説『トウモロコシの人びと』について、それを見よう。高橋勝之氏は、つぎのように書いている。
 「それは人間がトウモロコシからつくられたというマヤ=キチェ族の神話にもとづいている。つまり、トウモロコシの子孫であり、トウモロコシを神聖な作物と考える人びとと、トウモロコシを金もうけの手段だと考えている外部からきた人びとの闘争である。この紛争は、幻想的な形で措かれている。・・・五つのエピソードからなっている『トウモロコシの人びと』は、現在もグァテマラの農民のあいだで生きつづけている「ポポル・ブフ」の呪術的な世界を、かれらがいや応なしに直面している苛酷な現実と重ねあわせて提示しており、ときにはその神秘性が物語をしばりつけて、事件の論理的発展を妨げているかのようにみえる。しかしこのような原始的、アニミスト的な表象によって動く雰囲気のなかにも、搾取されるインディオと、野蛮な資本家たちの現実的なはげしい闘争が感じられるのである。このようなアストゥリアスの文学的手法を、ある批評家たちは、ラテンアメリカの前衛芸術の一つの傾向としての「魔術的リアリズム」だといっている。しかし、現代のラテンアメリカの文学にも、アフリカの文学にもあらわれているこのような神話的幻想的な意識をぬけきれない主人公たちの表象と、じっさいにその主人公たちがおこなっている闘争とを対比して考えてみるとき、これはたんに手法のうえのあたらしい傾向とだけ考えることはできない。現代のラテンアメリカでも、アジアでも、アフリカでも、帝国主義の植民地支配の結果として、社会発展のひじょうにことなった段階にあるいろいろの人民が、解放闘争に参加するようになっているからである。これらの人民の帝国主義的な現実にたいする抗議は、はじめの段階では、しばしば素朴な、おくれた、宗教的、神秘的なイデオロギーの形態をとってあらわれてくる。『トウモロコシの人びと』も、この抗議がはじめてあらわれた、もっともおくれた形態で表現されているのである』(新日本出版社『緑の法王』四一五ページ)
 一九四九年、アストゥリアスは青年時代から書いてきた詩をまとめて、詩集『ひばりのこめかみ』を出版する。この詩集では、小説家としてのアストゥリアスではなく、旅をし、愛し、悩み、熱中する、アストゥリアスの人間的な側面がうたわれている。いわば、詩という形式をとった一種の日記ということもできよう。とはいっても、ここに訳出した「インディオがメキシコから降りてくる」という詩のように、インディオの世界もそこには反映されている。
 アストゥリアスにとって、詩とは、人生のいろいろな体験・できごとをうつす鏡である。こういう態度をとっていたから、かれはどのような詩の流派にぞくすることもなかった。初期にみられるシュルレアリスムの影響も、前述したように、アストゥリアスにあっては、まったく独特の意味あいをとっていた。詩的表現、詩の手法などに関する理論的追求は、あまりかれの注意をひかなかったようである。この散文における革新家も、詩にあっては伝統的な形式で満足しているのである。
 一九六五年、アストゥリアスはフランスで『春の明るい宵』を出版している。この長い詩は、『グァテマラの伝説』の世界をうたったもので、ただ表現手段が変っているだけである。つまり、散文のかわりに、詩の形式が採用されている。そして詩は、やはり、神秘的なイメージ、妖精の世界の幻想的な活力にみちている。

 一九四三年、メキシコ駐在総領事だったネルーダは、帰国の途中、グァテマラにアストゥリアスを訪れている。そのとき、この二人の詩人が意気投合したであろうことは想像に難くない。なぜなら、二人とも、インディオをふくめて、それぞれの祖国の解放、南アメリカ諸国人民の解放を、それぞれの作品のなかで主要な主題として描き、うたっているからである。
 アストゥリアスは、一九六六年、レーニン平和賞を、一九六七年にはノーベル文学賞を受賞している。
 なお、アストゥリアスの小説『緑の法王』は新日本出版社より邦訳書がでており、その巻末に、高橋勝之氏が、アストゥリアスの伝記と小説作品の解説をかいている。

<「詩人会議」ミゲル・アンヘル・アストゥリアスの詩(下) 訳・解説 大島博光 /1974年>
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