
セーヌ随想 大島博光
だんだんとしをとって──わたしもまもなく七十歳になる──飛行機に乗る気力もなくなるだろうと思って、この夏はひとりでパリにやって来てみた。いくら好きなパリでも、ひとりぼっちではやはり淋しくて心細い。しかし、両替橋(ポン・トーシャジュ)やポン・ヌフの上から、うす緑色に流れるセーヌを眺め、そのうす緑色と、両岸の灰色がかった白い石垣や、うすい黄色みがかった古い白い建物との、漠然とした調和の美しさなどを眺めていると、やっぱり来てよかったなあと思う。
セーヌの魅力は、しかしその美しい眺めと流れる水の優しさにつきるわけではなかろう。セーヌが秘めた遠いむかしからの歴史などを──例えばパリは、紀元前二百年ごろ、ゴール人の漁師たちがシテ島に小屋を作ったことから始まったということや、アポリネールをはじめ多くの詩人たちがセーヌに想いを託して歌った詩のことを調べたら、その魅力は倍加することだろう。
両替橋といえば、デスノスの「両替橋の不寝番」という、すばらしい抵抗詩を思い出す。その両替橋の右岸のらんかんに「パリ警官アリックス・ジャンは一九四四年八月十九日、ここでドイツ軍に殺された」という大理石がはめこまれているのに気がついた。不寝番はおおぜいいたのである。
一八七一年のパリ・コミユーンの前に始まった普仏戦争で、勝利したプロシャ軍が一時パリに入城したが、パリ市民の暗黙の抵抗に遇って、まもなく城外に退却せざるをえなかった、と歴史の本は書いている。
その折のことを、ヴィクトル・ユゴーは「セーヌにただようプロシャ兵の死体を見て」という詩に書いている。
その詩が手もとにないのでここに引用できないが、およその大意はつぎのようなものである。「プロシャ兵よ、きみたちはこういってやってきた。ラインを越えれば、淫売婦の都バビロン(パリを意味する)があるぞ。さあ行って大いに楽しもう、と。だがいま、きみたちはセーヌのしなやかな水を布団に、やわらかな波を枕にただよっている・・・」
この詩で見ると、沈黙の抵抗どころか、やはりプロシャ兵が逃げ出すだけ激しい抵抗をうけたことがわかる。
ところで第二次大戦下、パリがナチス・ドイツ軍に占領されていたころのセーヌには、こんどはパリ市民の死体が投げ込まれていたことだろう。わたしはそれを書いた詩をまだ知らないが、アラゴンは「アヴィニョン」という詩のなかで、このモチーフを受けついでいる。
しかし、アラゴンの水死者たちは、ローヌ河の、あのアヴィニョンの折れた橋の下を流れる。その水死者たちは愛国者である。岸べは彼らを愛撫し、土手の草ぐさは悼みと別れを告げる・・・。
パリ・コミューンにおいても、ヴェルサイユ軍の兵隊どもは、パリ・コミューン戦士やパリ市民たちを、やはりセーヌに投げ込み、あるいはセーヌは死休で埋まるほどだったかも知れない。パリ・コミューンの作家ジュール・ヴァレスはこう書いている。
「うわさによると、傷ついたコミューン戦士がひとり、生きながらにセーヌに投げ込まれたという。かれは赤い血の筋をひきながら対岸にたどりついたという。かれが隠れたどこかには、血の溜りが残っているにちがいない・・・」
このあいだカルナヴァレ博物館に行ってみたら、大火災で焼け落ちる橋の油絵二枚が、ちがう画家によって描かれたのがあった。むろんシテ島あたりの橋だが、燃えさかる炎の色がセーヌに映るさまがみごとに描かれていた。そして、同じ主題で二枚も描かれているところを見ると、この大火は当時、センセーショナルなものだったことがわかる。
むろん、パリ・コミューンで、チュルリー宮殿を始めとして、燃えさかった炎を、セーヌは映したのであった。
アポリネールのミラボー橋には、明日にでも行ってみよう。
八月十五日、パリで
(詩人)
<「赤旗」1980.8>
*「両替橋の不寝番」
*「ミラボー橋」
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