千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 この詩集にはまたマヤコフスキーの影響がみられるが、アラゴンはマヤコフスキーから受けとった教訓について、『ソヴェト文学』のなかで明らかにしている。アラゴンがかつてシュールレアリストであったように、マヤコフスキーは未来主義者だった。しかし彼は万人のために書くという課題に「詩的解決」を与える。「宣言調の未来主義は現実の未来に譲歩したのだ」マヤコフスキーは自分の詩法を新しく変える。彼は詩のなかに会話、話し言葉を導入し、それに脚韻をつけて、音韻効果を与える。さらに脚韻そのものは、詩的表現の内容に、言いがたいものをも加えることになろう。
 それにアラゴンの定型採用は、「内容において社会主義的なものを、形式において民族的なものを」という社会主義レアリスムの理論を忠実に実践したものでもある。そしてこの「詩的解決」は、のちのレジスタンスの時代にその偉力を発揮することになる。この詩集のなかの「ナディジンスクで処刑された二十七人のパルチザンのバラード」は、すでにレジスタンスの詩を予告するものといえよう。

  二十七人の パルチザンは
  ひとりまたひとり 首くくられた
  兵士も 労働者も 農民もいた
  いちばん若いのは十四歳だった
  いさましく生きた 二十七人
  その眼は 光にかがやき
  その髪は 生前のように
  風とともに 空になびく
                 (『アラゴン選集』第一巻)

 『ウラル万歳!』は批評たちから黙殺された。「わたしは、その頃の批評家によって詩人として見きりをつけられていた……」と彼自身も書いている。
 こうして、一九三四年の『ウラル万歳!』から、一九四一年の『断腸詩集」にいたる七年のあいだ、アラゴンは一冊の詩集も出していない。もっとも、いくつかの詩を書いて、それを『共産党員は正しい』という詩集にまとめて出版する予定だったが、それはついに刊行されなかった。
 「十年間、わたしは詩を書いたが、そのほとんどは発表されず、多くは引き裂いて破られ、その他はただ失くなってしまった(とくにスペイン戦争のあいだ)。だがそれらの詩にみちびかれて、一九三九年の戦争の事態を前にしたとき、あれらの詩を九月からわたしは書き始めたのだ……」(『アラゴンは語る』)
(つづく)

新日本新書『アラゴン』
*「ナディジンスクで処刑された二十七人のパルチザンのバラード


赤バラ