千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 福田律郎の遺稿によせて
                          大島博光

 ここに、詩人福田律郎同志の遺稿がある。
 かれは、さる六月三十日、国立千葉療養所の一室で四十三歳の生涯をとじた。
 この遺稿は、題名の示すとおり、酸素吸入をうけながら、生と死のさかいで、死をみつめ、死とたたかいながら、この詩人がさいごの力をふりしぼって、口述したものである。それは、ひとりの共産主義的詩人が、死に直面して、死の問題に対決して書きのこした、まことにまれで、深遠な散文詩となり、遺言となっている……この遺稿は、ひとりの共産主義者がどのように死に対し、したがってまたどのように生に対したかを、その深いきびしさと美しさとでもの語っている。それは、読むひとに深い感動をあたえずにはおかない。死のおごそかさと同時に、しかし、生にたいする信頼と、未来にたいする希望とで、読むひとをはげまさずにはおかない……。
 「底なし穴のような」死をのぞきこみながら、かれは死の恐怖についてはふれずに、「献身的な同志の妻の看護」と、その背後の「祖国の党と人民の激励」を感謝の念をこめて思いうかべている……さらにかれは、つぎのようなすばらしい結論へとすすむ。
 「……死は一見抽象的な存在にみえるけれど死にも階級性は断じてあるのである。その死は人類の未来に必ず役立たされるものである。」
 そうだ、プロレタリア階級の集団的な階級性と、その党の革命的な党派性を身につけ、人民とともにたたかってきたものこそが、このように言うことができる。マルクス・レーニン主義思想で武装し、人類の未来を見とおし、希望をかかげつづけてきたものこそが、このような確信に到達することができる……これはもう、死にたいするひとつの勝利といっていい。
 こころみに、この遺稿と、反党修正主義者黒田喜夫の詩「除名」とを思いくらべてみるがよい。「除名」もまた「酸素ボンベを抱い」た状況で死をとりあつかった詩である。黒田はこう書いている。

 おれに残されたのは死を記録すること
 医師や白衣の女を憎むこと
 口のとがった容器でおれに水をのませるものから孤独になること。
 ……
 おれはきみたちから孤独になるが
 階級の底は深く死者の民衆はかぞえきれない
 一歩ふみこんでにせの連帯をはちきれば
 はじめておれの目に
 死と革命の影像が襲いかかってくる……

 ここには、いわれもない人間への憎しみ、ことさらな孤独の強調と誇示がある。そうして党とのむすびつきを「にせの連帯」などと中傷するものに、どんな「革命の影像」が「襲いかかってくる」というのだろう?この詩にみられるのは、おさきまっくらな敗北と絶望のうめきでしかない……
 この「除名」にくらべ、対比してみるとき、福田律郎の遺稿──散文詩の美しさ、偉大さがいっそうあざやかに浮きあがってくる。
 「夜中に目がさめるとポンポンポンポンとコルベンを伝って酸素が送られてくる。それは少年の頃隅田川を上っていった一銭蒸気の音に似ている。僕は一体どこへ運ばれて行くというのだろう。」
 生と死のさかいめにおける、送られてくる酸素の音と、少年の日の一銭蒸気の音との連想・回想そこからの類推の美しさは全くまれなものだ。しかしかれは、あの「底なしの穴」の方へ運ばれてゆくことを拒否する。かれの共産主義的精神は、このときに及んで、はっきりとベトナム人民への連帯の方へ──人類の未来の方へ向かってゆく……「アメリカ帝国主義はすでに怪物である」と、その侵略的本質をあばきだすことへ向ってゆく……ベトナム人民の勝利を確信しながら、国道十九号線で倒れて死んでゆく民族解放戦線の同志の死に心を痛めることへ向ってゆく……そうしてそこで、かれ自身の口述──意識の流れをもぷつりととだえている……まるで、かれ自身の意識もここでたたかい倒れたかのように!

 一昨年の夏のある日、わたしは詩人の赤木三郎といっしょに、千葉市の郊外にある療養所の病室にかれを訪ねた。それが、わたしがかれと会った最初でまた最後であった。しかし、かれとわたしとはもう長年来の親友、同志のような感じをもちあっていたように思う。かれは、長年のあいだ病床にあったものに特有の、あの青白くやせた腕と手で、食欲のないのに、一生懸命に食物をかみくだいて、長い時間をかけて食事をとっていた……病気にうちかって生きるために……生きてたたかうために……そんな状態のなかで、いくつものすぐれた詩を書きつづけたとは、まったく驚くべきことである。

 同志をみるとき
 そして党とつながるとき ぼくはべッドからわずかに身をおこして 詩を書くことができる   
 ベッドは丸木舟
 ぼくは敏捷な櫂(かい)
           (「同志をみるとき」)

 これらの詩句は、かれが病床においてなお強烈な精神力をもっていたことを示している。そのかれの精神力、たたかいつづける精神力のみなもとは、党にあった。重い病床のかれをささえ、はげまし、かれをたくましく生きさせたのは、党──日本共産党であった。「泉はこう言った……」という詩のなかで、かれはこううたっている。

 私は泉です 私は共産党員です
 党と共に闘ってきた長い年月
 それはまた病気と闘った年月
 ふりかえれば激しいながれとなって谷をわたり
   まだ先へとつづきます
 党を知ったから!
 私は沼を泉にかえることができたのです
 たえまない水のひびき!
 だがもっと早く党を知ることができたら!
 その時期に私はきっと健康をとりもどしていたにちがいないのです
 そのとき 党は最良の医師
 私にこう詰問したはずです 人民大衆に奉仕しようとするものが
 身体を守らないでよいだろうか? と
 ……
 「を知ったから」──党のおかげで、「私は沼を泉にかえることができた……」「そのとき 党は最良の医師」とかれがうたうとき、そこには、党にたいするかれの深い信頼と感謝とがこめられている。党と党の思想とは、このように、ひとりの古い人間を新しい人間へと変え、生きさせる……

 詩人福田律郎は、戦後まもなく、純粋詩の方から党へやってきた……かれは誠実な実践のなかで、「沼を泉にかえる」自己変革の過程をへて、純粋詩と政治詩とを、純粋詩と党の詩とを、ひとつにむすびつけることのできたまれな詩人のひとりとなった……かれの自己変革の過程は、散文詩集「終と始」のなかに、みごとな結晶となって反映されている。一九五二年三月に、かれは「オルグ」という詩をかいている。

 おれは歩く
 おれは見る
 党よ 知っている おれは誰とどこへゆくべきかを
 党よ 風は高いところを過ぎてゆく
 あの塔の下で外国人が菜の花をふみちらす
 あの塔のとなりの工場では
 きのうから外国人が
 それに似た日本人が 人殺しの道具をつくっている
 おれは歩く
 ここはおれの千葉県西部地区委員会
 ここはおれの血と土
 ……
 党よ この日々はすばらしい!

 ここで、かれはすでにすぐれた党の詩人として立ち現われている。それ以来苦しい状況、困難な条件のなかで、かれが書きつづけた多くの党の詩は、わたしたち党員詩人にとって、すぐれた模範となっている。実践のなかで、ひとびとと深くむすびつき、党の思想、党の感情 党派性を、ゆるぎない言己のものとすることなしには、このようなすぐれた党の詩を書くことはできない……
 戦後、かれと同じ頃に、党にはいった知識人のある部分は、あるいは、党をうらぎり、あるいは脱落して行ったが、かれは、酸素吸人の中でも、生の最後の瞬間まで、党とともにあったばかりでなく、党にたいする深い信頼と感謝をうたいあげている。そうしてベトナム人民の英雄的な闘争に連帯の思いをはせているのだ。かれは、日本共産党の党員詩人として、そのりっばな生涯をとじた。わたしはかれの霊に深く頭をたれる……

 福田同志よ、友よ、さようなら。
 きみがさいごの息をひきとったとき、わたしたちは、参議院の選挙闘争のさなかにいた。もう一週間生きのびていたなら、きみは、輝かしい党の躍進、党の勝利を見ることができただろうに……きみの夢、きみの志向、きみの怒り、きみの遺言を、わたしたちはうけつぎ、さらにいっそう大きなものにし、そうしてもっと眼に見えるものへと変えるだろう。
同志よ安らかに眠ってくれ……

      *

 酸素吸入の中から
                       福田律郎

 レオノフ中佐はハッチを開けると宇宙に遊ぎだした。人間がその手で宇宙に触れた最初の瞬間である。彼には宇宙は底なしの穴のように思われた。しかしその無際限な穴の中へ陥ちこんでいかなかったのは彼の宇宙服が一本の命綱によって衛星船にしっかりつながれていたからである。彼は遊ぎながら一回転すると地球をカメラで写し始めた。
 地上に帰還してから、そういう困難な任務を遂行しながら不安を感じなかったのはつねに母船に同僚のベリエフ大佐がいたからでありその背後に祖国の党と人民とがいたためであるといった。

 その頃僕もまた一本の命綱によって辛うじてこの世の中とつながっていた。傍らに巨大な酸素ボンベを置いてそこからカテーテルを鼻口に入れての酸素吸入である。僕はほとんど眠ってばかりいた。そして僕がみたものも底なしの穴のようなものであった。そこにはレオノフ中佐がみたようなきらめく星々はなかったし、偏平な地球もみえなかった。それでもその穴の中へ運び去られていかなかったのは献身的な同志の妻の看護があったからである。その背後に祖国の党と人民の激励があったからである。ガガーリン中佐は始めての宇宙飛行に成功して帰ってきた時「地球は青かった」という詩的な表現をした後でやっぱり祖国の党の名をあげて感謝をしたことがある。それをきいて始めての宇宙飛行士がなにも祖国の党をここで持出すことはあるまいといってからかった文章を書いたばか者がいる。
 宇宙飛行士になろうが僕のように死に直面しようが人間である限り彼の存在は階級性、党派性から離れることはできないのである。死は一見抽象的な存在にみえるけれど死にも階級性は断じてあるのである。その死は人類の未来に必ず役立たされるものである。
 夜中に目がさめるとポンポンポンポンとコルベンを伝って酸素が送られてくる。それは少年の頃隅田川を上っていった一銭蒸気の音に似ている。僕は一体どこへ運ばれて行くというのだろう。
 ポンポンポンポン コルベンから酸素の送られてくる音がする。そうだ、どこへ運ばれてゆくのだろうなどと感傷的なことを言ってはいられない。僕は南ベトナムから手紙をうけとっている。そして今日もそこではドンホアとプレークを結ぶ国道十九号線で民族解放戦線の同志が仰向けざまになって死んだ。
 アメリカ帝国主義はすでに怪物である。知性も理解も何もかも失っている。中国共産党は絶対にこの報復はすると声明した。ベトナム民主共和国もまた絶対に報復するといっている。僕は一銭蒸気にのって早くこの同志たちと手をとりあわねばならぬ。
 僕らが米帝を粉砕することは間違いないけれど それにしても十九号線で現在倒れてゆく同志の悲惨──。

(『文化評論』1965年10月号)

福田律郎
療養中の福田律郎