千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


島田利夫の同人誌「ラッパ」と大島博光 

 1948年、島田利夫は入学して2か月で法政大学を退学し故郷前橋に帰った。就職はしないで、詩作や読書に熱中し、仲間に呼びかけて詩の雑誌「ラッパ」を発行した。島田利夫、嶋田誠三、島田千鶴子、福田ヒサコ子の同人4人が3篇ずつ執筆した。
 島田利夫・嶋田誠三兄弟を主人公にした伝記的小説「自由への道」(嶋田誠三著)で「ラッパ」が大島博光との交流のスタートだったことが分かります。(小説の中で島田利夫は俊介、嶋田誠三は信作の名前となっています)
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 「ラッパ」の俊介(島田利夫)の作品にはある特徴がある。その一つは、そのイメージや主題が現実的なこと、もう一つはその歌い方がリズミカルなことである。

 「ラッパ」に対する反響はすぐにあった。中央詩壇で活躍している北川冬彦、草野心平、鮎川信夫、三好豊一郎、大島博光などからは、すぐに激励のはがきが来た。
 それらの詩人は、「ラッパ」に載った俊介の「挨の中の童話(メルヘン)だ」「堤防」「あそこの路地に隠れたのは?」を一様に高く評価していた。なお大島博光は信作(嶋田誠三)の「商品街」、三好豊一郎は千枝子(島田千鶴子?)の詩についても触れた。笹沢さんからは、このようなことは大変異例なことで、詩壇から認められた事になると言われた。当時俊介は十八歳である。

 俊介は「ラッパ」を抒情詩人には送らなかったようである。また俊介はすでに共産党に入党し、革命的な詩を目指してはいたのだが、プロレタリア詩の流れに立つ壷井重治、岡本潤の詩などはあまり評価をしていなかったので、それらの人に「ラッパ」は寄贈しなかった。当時俊介は叙情詩を否定しようとしていたが、もともと俊介は叙情性に富んでいた人で、三好達治など優れた抒情詩人には親近感を持っていた。また身近にはリルケの訳詩や研究家である笹沢美明がいたわけなのだが、笹沢さんは俊介の叙情性を高く評価しながらも、叙情性を克服していこうと志向していた俊介に、あえて叙情詩の方向にすすめとは言わなかった。壷井や岡本の詩について俊介は、政治主義で観念的で詩としては評価できないと言っていた。中野重治の詩については、詩としては評価しながらも、日本的伝統的な短歌的抒情性から抜け出ていないと見ていた。俊介はむしろ北川冬彦など「詩と詩人」「荒地」の詩人から学びながら、その頃は、マヤコフスキー、アラゴン、そしてプーシキンを詩人として目標にしていた。

 俊介は中学生時代からモダニズム、シュールレアリズムの詩を目指し、日本では「詩と詩人」「荒地」の系統の詩の影響を強く受けていた。俊介の才能をいち早く評価した岡崎清一郎、笹沢美明氏は「詩と詩人」の系統の人である。その中でそれを克服して革命的な詩を目指した。「ラッパ」に載った詩にもその詩の方向は明らかであるのに、詩壇の中でも「詩と詩人」「荒地」の系統の多くが俊介の詩の方向性を認めた上で、俊介の詩を評価した。又俊介は叙情詩、特に伝統的な短歌的抒情を克復して、現実に対峠するリズミカルでダイナミックな詩を目標にした。またプロレタリア詩の流れの、詩の中にある政治的な観念的な詩を克服しなければと思っていたようである。大正デモクラシーを経、日本の近代詩の積極的な側面を受け継ぎ、現実変革のリズミカルでダイナミックな詩。そういう詩の可能性を秘めた特異な詩人ではなかったのだろうか。

 俊介は「ラッパ」に対する北川冬彦、草野心平など一流詩人からの賛辞、笹沢さんの「詩壇から認められたことになる」という言葉などで、自分の詩に対する自信を深めたようだったが、それを契機に詩壇との接触を深めて詩人としての道を開こうという考えは持たずに、逆に詩壇には背を向けて、革命的な詩の創造のために労働運動、農民運動と接触していこうと考えていたようである。
 それでも俊介は、引き続きY・P・Cには顔を出し、笹沢さん、岡崎さんとの関係は保ちながら、中央の関係では、あなたの「『ラッパ』を人民革命の進軍ラッパに」と激励してくれた大島博光との関係は保って、俊介独自の道を歩もうとしていた。
(嶋田誠三著「自由への道」──『風の街』NO.35所収)

風の街