千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 レジスタンスにおけるマルセイエーズ

 第二次世界大戦を通じて、マルセイエーズはレジスタンスの歌としてその力を発揮した。いやむしろ、マルセイエーズはレジスタンスそのものであった。それはナチ占領軍にたいする闘いの武器となった。ちょうど第一共和制下、一七九四年の軍隊においてそうであったように。

 一九四〇年から一九四五年にかけて、マルセイエーズは自由と独立をめざす闘いの武器として、いたるところに鳴りひびいた。ヨーロッパと世界をナチの圧制から解放しようと願う、すべての人びとの唇にのぼった。一九四二年には、中立国スウェーデンのヘルシングボリにおいて、マルセイエーズ誕生一五〇周年記念展覧会が催された。
 パルチザンたちの間で、牢獄で、強制収容所で、ナチの死刑執行人たちの銃殺隊の面前で、いたるところでマルセイエーズは歌われた。ひとり戦いの歌としてだけでなく、希望の歌、解放の歌、平和の歌として歌われた。
 前大臣アルベール・フォルシナルは、一九四九年七月十九日、下院に書き送った。
 「一九四三年七月十四日、広大なフレーヌの牢獄じゅうに鳴りひびいたあの歌声を、わたしは忘れないであろう。この国の祭日に、マルセイエーズを歌い始めた、レジスタンスの一女性の明るい声を、わたしはけっして忘れないであろう。
 すべての女性たち、すべての女囚たちが、最初に歌い始めた女性の声にあわせて歌いだした。すばらしい歌章が牢獄の丸天井に鳴りひびき、ふくれあがった。ついで男たちの歌声が戦友たちの声にあわせて湧きあがった。
 あのレジスタンスの女性たちが敵の面前でどのように振る舞ったかを見られたい。」

 一九四二年六月二十五日、ヴィシー政府の命令で処刑されたアンドレ・ダルマは書く。
 「判決が宣告されたとき、震え上がったのはただひとり大統領だけだった。われわれはみんな、ほとんど動揺の色もなく、抱き合った。なぜなら、われわれは勝利した、わが偉大な党の名を辱めなかった、という信じがたい幸福感にひたっていたから。帰えりに、われわれはマルセイエーズを歌った。ちょうど君たちが偉大な勝利の日に歌うだろうように。」

 さらに、アウシュヴィッツ収容所に抑留された、チェコスロヴァキアの女性マンカ・スヴァルボーダの感動的な証言がある。
 「ある朝、収容所の入口に三百人ほどの新参者が現われました。彼女たちはどこの国からやってきたのでしょう?わたしたちはじっとうかがっていました。とつぜん、わたしたちは息をのみ、拳(こぶし)をにぎりしめ、眼を輝かせたのです。わたしたちの死の収容所のさなかにマルセイエーズが湧きあがったのです。
 《行こう 祖国の子らよ!(アロン ザンファン・ドラ・パトリーユ)》
 久しぶりにわたしたちは自由の気分で深ぶかと息をしました。いろいろの想いや情景がわたしの頭のなかをよぎります。毅然たる、はてしない軍隊、パルチザンたち、活動家たち、負傷者たち、不屈な殉難者たち。勇敢な眼がわたしを見つめ、手がさし出されます。するとわたしは突然、わたしたちの収容所の鉄条網も火葬場の炎も、世界から切り離されていないのに気がつきました。闘争、苦しみ、希望はいまもつづいているのです。街まちのなかに、爆破されて吹っとぶ橋のなかに、脱線する列車のなかに、抱きしめあう手のなかに。
 三百人の女囚のなかにダニエル・カザノヴァがいました。彼女がわたしと握手を交わした時から、それがダニエル・カザノヴァだということがわかりました。コルシカ生まれの彼女の黒い眼のなかに、果断、確信、友愛、誠実が輝いていました。彼女の微笑みはおおらかで、ほとんど無邪気で、どこか子どもの陽気さといったものがありました。彼女の力づよい握手は、男の握手のようでした……」

 希望の歌、友愛の歌、社会正義の歌、マルセイエーズは、ルージュ・ド・リールがそれをつくった輝かしい時代におけるように、いまも若々しく新しい。この歌はストラスブールで生まれ、マルセイユがこの歌をわがものとしてとりいれた。パリの蜂起した人民は、一七九二年八月十日の革命にてこの歌をうたった。
 国民的(ナショナル)であると同時に国際的(インタナショナル)なこの歌はフランス人民ばかりでなく全世界の人民の革命的意志と希望をあらわし、人民をはげましつづけるであろう。
(自筆原稿)