千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


世界の共産党員物語(9)

ピカソ(下)

●巨匠の入党──「鳩」


──わたしは泉へ行くように共産党へ行った(ピカソ)

 一九三九年九月、スペイン戦争につづいて第二次世界大戦が始まります。そのときピカソは五十八歳で、ますます有名になり、「ゲルニカ」のおかげで反ファシズム闘争の象徴ともなっていたのです。

♣ナチ占領下のパリで

 ナチス・ドイツ軍に占領されたパリで、「ゲルニカ」の画家は生きてゆくことになります。ポン・ヌーフの橋のたもとのグラン・ゾーギュスタン街のアトリエに、彼は四年間とどまるのです。
 ドイツ軍はピカソにたいして誘惑の手をのばしますが、ピカソはその手にはのりませんでした。食糧や石炭を特別に配給しようというナチの甘言にたいして、「スペイン人はけっして寒がらないものです」と答えるだけでした。またつぎのエピソードは有名なものです。
 ナチの一将校がピカソを訪ねてきて、テーブルの上に一枚の「ゲルニカ」の写真をみつけてたずねます。──「これをつくったのはあなたですか?」──「いいえ、それをつくったのはあなた方です」とピカソは答えたというのです。またドイツ人の訪問客に、ピカソは「ゲルニカ」の写真を渡して言ったのです。「どうぞお持ち帰りください。思い出に! お土産に!」
 ナチによる占領下という悪い条件のなかでも、ずっとピカソは絵を描きつづけ、「羊を抱いた男」のような彫刻をも制作します。占領下の飢えたパリの女たちがアパートのバルコンで丹精こめて育てた箱植えのトマトは、「トマトの植込み」という絵に描かれています。また「アルティショを持つ女」では、若い娘が誇らかに、激しい思いをこめて、アルティショ(サラダ用のセリ)をまるで武器のように握りしめています。
 パリでもナチス・ドイツ軍に抵抗するレジスタンスの運動がだんだんと大きくなってゆきます。そのなかで、ピカソは若い画家たちやレジスタンスの知識人たちとの連帯をつよめてゆきます。とりわけ親友の詩人ポール・エリュアールが、それまでの政治的でない超現実主義(シュールレアリスム)を克服して、抵抗詩を書き、レジスタンスの運動に参加してゆくのを、ピカソは同意をもって見守っていました。こうしてエリュアールは一九四二年の初め、フランス共産党に入党します。エリュアールがシュールレアリスムの呪縛からぬけでて共産党員へと発展してゆく過程には、「ゲルニカ」の画家ピカソの影響がつよく働いたにちがいありません。そしてエリュアールの入党はまたピカソに共産党への入党を準備させたことでしょう。一九四四年八月二十四日、ついにパリは解放され、悪夢のような戦争が終わります。

♣63歳で入党を決意

 ピカソはふたたび多くの賛美者にかこまれます。「ゲルニカ」の画家はナチの占領からフランス人民を解放した勝利の受取人となり、勝利の象徴となり、自由の象徴となります。
 「……彼にとってヨーロッパを見すてて亡命することがきわめて容易であったときに、ピカソは自分が悲惨と栄光をあじわった都市(まち)パリを見すてることを拒んだ。この都市(まち)は彼の名を高からしめたが、その代り彼から多くのものを受けとったのである……」(ルイ・パロー)
 一九四四年十月に開かれるサロン・ドートンヌの委員会は、同展に、ピカソが戦争中に制作した絵画と彫刻の主要な作品を陳列できるよう、一室を提供することを決定します。それは、レジスタンスの精神を象徴した画家にたいする敬意のあらわれでした。
 サロン・ドートンヌへの出品作品を選んでいる最中、ピカソは入党を決意します。このときピカソはもう六十三歳でした。その入党は一時の思いつきでもなければ、ましてや親友エリュアールの圧力などによるものでもなかったのです。当時、フランス共産党は過酷なレジスタンスの闘争によって鍛えられた党であり、「銃殺された人たち」の党でした。その党の隊列にはすでに、詩人のアラゴン、エリュアール、トリスタン・ツアラ、偉大な物理学者ポール・ランジェヴァンやフレデリック・ジョリオ・キュリ、心理学者アンリ・ワロン、画家フェルナン・レジェなどが加わっていました。ピカソ入党のニュースは、共産党機関紙「ユマニテ」紙(十月五日付)に大きく発表され、ピカソ自身による「入党の言葉」が十月二十九日付の同紙に発表されたのです。

♣ピカソ入党の言葉

 「わたしの共産党への入党は、わたしの全生涯、わたしの全作品の当然の帰結である。なぜなら、わたしは誇りをもって言うのだが、わたしは絵画をたんなる楽しみの芸術、気晴らしの芸術と考えたことは一度もなかったからであり、わたしはデッサンによって、色彩によって──それがわたしの武器だったから ──世界と人間への認識のなかに常により深く入りたかったからである。この認識が日ごと、よりいっそうわれわれを解放してくれるように、わたしがもっとも真実で、もっとも正しく、もっともよいと考えたものを、わたしはわたしの流儀で表現しようと思った。それは、偉大な芸術家たちがよく知っているように、当然つねにもっとも美しいものだった。そうだ、わたしは真の革命家としていつも自分の絵画のために闘ってきたことを知っている。しかしわたしはいま、それだけでは十分でないことに気がついた。この怖るべき圧制の数年は、自分の芸術をもって闘うだけでなく、わたし自身の全部をあげて闘わねばならないことを教えた……そこでわたしはためらうことなく共産党へ行った。というのは、わたしは心のなかではずっと前から党とともにいたからである。アラゴン、エリュアール、カッスー、フージェロンなど、すべてのわが友人はそのことをよく知っている。わたしが公式に入党しなかったのは、それはある種の「無邪気さ」によるものだった。わたしは、わたしの作品、わたしの心による入党で十分であり、しかもそれがもうわたしの『党』だと信じていたからである。もっとも世界をよく知ろうとし、世界を建設しようとし、こんにちと明日の人びとをいっそう自覚させ、いっそう自由にし、いっそう幸福にしようと努めているのは党ではなかろうか。フランスにおいても、ソビエトにおいても、わがスペインにおいても、もっとも勇敢だったのは共産党員ではなかろうか。どうしてためらうことがあろう。参加するのが怖ろしかったのか。いや、反対に、わたしはかつてなくいっそう自由に、いっそう申し分なく感じている……それに、わたしはひとつの祖国をみつけるのにひどく急いでいたのだ。
 わたしはずっと亡命者だった。いまやわたしはもう亡命者ではない。スペインがわたしを迎え入れてくれる日を待ちながら、フランス共産党が腕をひろげてわたしを迎え入れてくれたのだ。わたしのもっとも尊敬する人たち、偉大な学者たち、偉大な詩人たちを、わたしは党のなかに見いだした。そしてあのパリ解放の八月の日々に見た、蜂起したパリ市民たちの美しい顔を、わたしは党のなかに見いだした。わたしはふたたびわが兄弟たちに仲間入りしたのだ」
 またそのころ、「なぜわたしは共産党員になったか」というパンフレットがつくられたとき、ピカソはあの有名な言葉で答えています。
 「泉へ行くように、わたしは共産党へ行った」

♣世界中をとびまわった鳩

 さて、平和の象徴となって世界じゅうを飛びまわった、ピカソの「鳩」について、その由来を追ってみましょう。
 一九四九年四月のある朝、パリじゆうの街の壁に、黒地に白い鳩をうきたたせたポスターが張りめぐらされていました。パリでひらかれた第一回世界平和大会のポスターで、そこにうきでていたのがピカソの鳩でした。
 のちにたいへん有名になるこのポスターの由来には、つぎのようなエピソードがあります。平和大会の組織委員であったアラゴンは、大会のポスターの図案をピカソに依頼しました。ピカソはそれをすっかり忘れていたのです。ぎりぎりの時間が迫りました。そのときアラゴンは、いつかピカソのところで、紙ばさみのなかにかいま見た鳩のデッサンを思い出したのです。アラゴンはさっそくグラン・ゾーギキュスタン街のピカソのアトリエに走りました。ピカソはそこにいて、鳩もまた紙ばさみのなかにいたのです。
 「きみの好きなようにしたまえ」とピカソはアラゴンに言いました。
 アラゴンはその足で印刷所に急ぎ、ポスターの型や色などを決め、こうしてピカソの最初の鳩のポスターがで上がったのです。大会中、ポスターは何千枚となく複製され、世界じゅうで有名になりました。この「鳩」ほどピカソのひろい大衆的な人気に役立ったものはありませんでした。
 ピカソの鳩はまた、ヴァローリスの窯で焼かれた絵皿のうえにも現れ、さらに切手となり、絵はがきとなって、何百万というピカソの鳩が、世界じゅうを飛びまわることになります。それは、母親たちにはやさしい希望のことばを運び、その羽ばたきでひとびとを呼びさまし、戦争や原爆による死を拒否するようにはげましているのです。この鳩を、どんな鳥刺しも毒矢も射落とすことはできないでしょう。

 (本稿は拙著『ピカソ』(新日本出社)に拠って書かれた。詳しくは同書を参照されたい)

<『月間学習』1988年2月号>