千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 エヴァの出現

 一九一一年の秋、ピカソはエヴァ・グール(マルセル・ウンベル)と出合い、熱烈に愛するようになる。その時エヴァは十六歳で、フェルナンドとは反対に、小柄で細っそりした娘であった。一九一二年の始め、フェルナンドはピカソとエヴァの関係に気がついた。彼女はピカソを嫉妬させようとして他の男に走ったらしい。ピカソはブラックに語る。
 「きのう、フェルナンドは未来派の画家と出奔したよ。あんな牝犬にかまっていられるかね」
 サバルテスは「八年間にわたる同棲生活で蓄積した倦怠によるものだ」と指摘する。
エヴァにたいするピカソの愛情は異常なものであった。彼はカーンワイラーに書き送る。「ぼくはとても彼女を愛している。ぼくは画布のうえに彼女を書くだろう」と。
 そして、じつさい、彼はある絵のなかに、J’aime Eva(ぼくはエヴァを愛する)という文字を書きこみ、もう一つの作品には、彼女の名前のかわりにMa jolie(いとしいひとよ)という文字を書きこむ。このMa jolieというのは、その頃流行(はや)ったシャンソンから借りてきたものである。それにしても、まるで壁のうえに恋する娘の名前を落書きする若者のような、こんな振舞いをしてみせた画家はかつてひとりもいない。
 一九〇八年以来、ピカソとブラックは相たずさえて量感と形の追求−キュビスムを追求する。ブラックは言う。
 「わたしを大いに魅きつけるのは、──それがキュビスムの主要な方向であるが── それは新しい空間の物体化materialisationである……というのは、自然の中に触覚できる、ほとんど手で触ることのできる空間がある……それはわたしがつねに物を見るだけでなく、物にさわりたいというわたしの欲望にこたえてくれた」
 ピカソはアトリエに閉じこもって、身のまわりの親しい物たち──テーブル、水差し、コップ、煙草の包み、ギターなどを観察する。いろいろちがった視点から観察したり、手でさわってみたり、その仕組みや弾力を調べたりする。彼はそこに改めて世界の創造過程を見る。そのとき対象は、彼の前にその形、その骨組み、その輪郭、その内面、その裏面をもって現われる。そして彼がその対象をそのように表現するとき、キュビスムが生まれるであろう。こういうピカソのキュビスムを、フェルミジエは、その『ピカソ』のなかで「貧乏画家たちのレアリスム」と言っている。
 「ピカソが画面に持ちこみ、実現しょうとした物、あの古新聞、ギター、煙草の包みなどは、芸術家の日常生活に属する物であり、彼の生活の詩的属性のごときものである。この面では、キュビスムはレアリスムであり、パリのアトリエと貧乏な画家たちの民謡(フォークロール)である。……この点で、キュビストの絵画はたんに印象派の『現代性(モデルニテ)』に属しないばかりでなく、『よき時代』の画家たちの優雅、夢想、内密の詩などにたいする侮蔑、民衆的な不敬の表明として現われる。一九〇五年以来、マチスはパリを離れて悦楽のアルカディア(『生きる悦び』)へと去った。ボナールとゲイヤールはクリシィ広場にとどまっているが、披らは婦人帽子屋と花売りの域から向うへは行かない。それにくらべると、ピカソの絵画は誇りをもって自分の貧乏を主張する貧乏人の絵画である。とはいえ、キュビスムをポピュリスム(民衆主義)とみることはできないし、『貧乏な若者の物語』の絵画版とみなすこともできない。ウィルヘルム・ウーデのように『マチスはただ絵画にだけ興味をもつとすれば、ピカソはただ自分自身にだけ興味を抱く』と言っても言い過ぎではなかろう。」

 一九一四年八月、独仏戦争が勃発したとき、ピカソはブラックとドランとともに、南仏アヴィニョンにいた。スペイン人のピカソを除いて、ほかの二人には動員令がくる。ピカソはのちに語る。
 「動員令がくだった時、わたしはブラックとドランをアヴィニョン駅に送って行った。それを最後に、わたしはもう二度と彼らに会わなかった。」
 戦争とともに、七年前から始まった熱狂的なキュビスム体験は、ここに終りを告げる。ピカソとブラック、ドランとフワン・グリスのような画家たちをひとつに結びつけていた理念と感情の共有は、その後もう二度と見られないであろう。

<新日本新書『ピカソ』──キュビスムの時代>

若い女の肖像
ピカソ 「若い女の肖像」 1914年
(エヴァ・グールがモデルといわれている)